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2019-06-05 17:47:00

わがままに生きる

自分が感じるまま、自分がしたいように行動するのに、抵抗を覚える人は多い。(私もその1人だったけれど)

 

こんなことするなんて、自分のわがままではないか?

今まで手にしてきたものが、失われてしまうのではないか?

世間一般から外れてしまうのではないか?など

何が正しいか?と考える時点で、自分を守ろうとする反応が起きているのだろう。

 

それは、生きるうえで大切な事でもあり、当たり前の感情でもある。

 

でも、自分の外に原因や責任を求めても、苦しみは終わらない事に気づけたなら、

証拠や基準を、外に求めることを止めてみるといい。

 

人は、本当の自分の欲求を知り、自分を信頼することを怖がるけれど、

答えは自分の中にあって、何より、それが一番正しいということを、本当は知っているのだとも思う。

 

それに気づいていくには、嫌な部分を、わかったふりをして、ないものにしたり、

いけない事だと閉じ込めたりしないこと。

 

嫌な自分を排除することに必死にならないで、とりあえず、その場に置いておけるスペースを作ること。

それは、息を吐ききる事に集中すると、次は、意識しなくても自然に息をしていることに似ている。

 

すると、案外、怖い事でもなく、敵と思っていたそれは、

本来の自分に気づかせるための扉であることに気づくかもしれない。

 

 

目には見えず、根拠もない未知なものに進む生き方は、綱渡りのような危険と勇気を必要とする。

でも、先行きの見えない時代を生きている私達には、安全や安心が保障されているわけでもない。

ましてや、明日も同じように生きれるとは限らない。

 

 

全ては今、ここに。

自分に起こることに興味や関心を持って佇むこと。

 

その過程を、孤独な作業にする必要はない。

あなたの思いや感情を加工することを求められる場ではなく、

そのまま、ありのまま、あなたでいることを許される場や人との中で、新たに生まれてくるのだと感じる。

 

自分の、わがままを、正直に認めることができると、

 

人は皆、わがままなのだな~と、何だか優しい気持ちになれたりする。

わがままに生きる

2019-05-24 16:58:00

看取り

高齢化が進み、人生の最終段階での医療の在り方は、大きく変わった。

 

尊厳死が言われるようになり、延命処置を行わないことで、

安らかに、自然な死を迎える選択を与えられる機会は増えている。

 

日本では、病院で最期を迎える方が大半だったが、超高齢化社会を迎え、今後、病院や老人ホーム等の不足が予想されており、

在宅での看取りのニーズが高まることは必然といわれる。

 

死は、確実に誰にも平等に、やってくることを考えると、

自分が将来、どのような最期を迎えたいか?を考えておくことは大切なことだと思う。

 

しかし、個人的に考える機会はあっても、それを近親者で共有する機会は少ない。

死について、話し合うことを避けてしまうのは、残されるものに働く心理か?

 

 

どのような最期を迎えたいか?

いかに本人の価値観を尊重するか?

前もって、近親者と共有することは辛いことかもしれない。

馬鹿げたことだ、と取り合わないでいたい気持ちもあるかもしれない。

死ぬなんて・・・そんな不吉なこと・・

 

 

現代では、認知症の問題もあり、自分の最期をどのようにするか?は、家族に求められるという現実もある。

 

 

最近は、老人施設で「看取り」を掲げる所が増えているが、

実際に、利用者の状態に合わせて、自然に死を迎える体制が整っている所はまだまだ少ないと感じる。

 

 

入所した時と違って、その人の状態は、刻一刻と変化していくものだからだ。

だからこそ、医療、介護スタッフ・家族とコミュニケーションをとり、情報交換やプランの見直しが大切になってくる。

 

 

衰弱する、という事は、

 

食事が摂れなくなる。

水分が取れなくなる。

尿が出なくなる。

色々あるけれど・・・・

 

 

人は、衰弱していく人を見た時に、

無意識に、何かをしなくてはいけない、と思うのではないだろうか?

 

「何かをすること」に慣れている状態ともいえる。

自然に息を引き取る場に慣れていないのだ。

 

 

呼吸が、ゆっくり止まり、やがて心臓が止まる。

 

その最後に至るまで、見送る私達の価値観が影響してしまうのではないか、と感じる。

 

 

ただ死を待つことは、周囲のものにとって、不安や焦りや、恐ろしさを感じることでもあるだろう。

 

死を受け入れる、ということは、看取るものに動揺を与える。

 

 

自然に命の終わりが近づく時、

限りある生の時間を、死にゆく人と共に過ごす時。

 

何かをしなければいけない、という焦りや不安や恐怖にまず気づくこと、

死に行く者、生きる者、死と生、分けようとしている自分に気づくこと。

そして、ただ今この一時に、共に存ること。

今ここに存在する者同士の場によって現れることは何であるのか?

 

それは、忘れがちな自分の死を意識して生きること、によって得られるもの、そんな予感がある。

 blog 看取り

 

 

 

2019-05-23 17:47:00

誰が×つけてるの?

自分の感情や思いを、否定してしまうって何だろう?

×をつける、ダメだしをするって、自分へのいじめなのに・・・

わざわざ×をつけるって?

 

自分いじめは、こうでなきゃ!とか、こういうものだ!

という「正しさ」に反応している。

過去の辛い経験や、うすうす感じている自分の嫌な部分に反応しているようだ。

 

 

過去、自分に×(罰)を与えることで、誰かを守ってきた経験があったのかもしれない。

(結局、それは、自分を守るためにしてきたことなのだけれど)



気づきが深まってくると、

嫌な自分を感じることさえも許せない、自分がいることに気づくことがある。

このダブルいじめの罠にはまるのは、相当に辛い。

 

 

こんな自分だから愛されないのだ、だから上手くいかないのだ、等と思って、

今まで何とか治そうと、頑張ってきたこともあったかもしれない。

 

 

嫌な感情や記憶や感覚は、普段、見て見ぬふりされているようにできている。

(生きていくために、もともと備わった機能)

 

 

だから、気づきが進むということは、けして良い気持ちをもたらすだけではない。

 

今までの方法や思考にとどまることが、何より安心というのは当たり前のことなのだ。

 

 

でも、嫌な感情や思いや感覚が表れてきたとき、

それは、もっと私を見て!ってサインなのだと思う。

 

 

どういう時に、どんな感情が湧き、どのような価値観から、その感情が引き起こされるのか?

 

 

自分に起こることを、ほんの少しでも認めてやること。

認めるまでいかなくても、それと少し一緒にいることを試してみること。

 

 

意識は繋がっているから、嫌な部分に光が当たる(意識する)ことで、

一方通行だった流れが変化し、交流し始めることで循環していく。

 

 

気づきが進んで、交流ができると、繋がりは自然に起こってくる。

 

今まで、ばらばらだった気持が、交流することによって訪れる安堵感。

 

 

それは、あるがままの自分と共に在ることの一体感がもたらす、心の平和ともいえる。

誰が×つけてるの?

2019-05-08 16:02:00

気づきの効果

相手の話を聞くということは、自分が話すことより、難しいことだと感じる。

 

世には、聞き上手といわれる方が沢山いるけれど、

そんな方に話をした時には、自分をわかってもらえた!という、

実に気持ちのよい感じを受ける。

 

でも、実際は、そのような時ばかりともいえない。

 

 

苦しみや悲しみ、怒りといった一見、マイナスな感情を目の当たりにした時、

人は、戸惑ってしまうのだと感じる。

 

何かを言わなくては、何かをしなくては、という思いが生まれるのか?

それは、何とかして励ましたい、という思いだったり、

怒りを、ぶつけられる怖さから逃げようとして起こることなのかもしれない。

 

 

相手の辛さと距離を置くために、無意識に生まれてくるものなのか・・

 

 

他者と共に、ただ、そこに在るということは難しい。

 

 

アドバイスは、時として、相手の思いを、ないものにしてしまうことに、つながりかねない。

そんな時、相手には、共有されなかった気持ちの悪さが、残るかもしれない。

 

 

正論より共感・・・

 

 

ただ、共にいて、そこにとどまること。

相手の中で今、何が起こっているのか?興味を持って、一緒に体験する姿勢や、

それは、こういうこと?って、尋ねていく丁寧な時間が必要になるだろう。

 

 

相手に起こっていることを、判断や評価することなく共有していく時間。

そう・・・あなたに、今、そんなことが起こっているのだね、ということ。

 

 

それができるようになるには、

自分の中に、評価や判断を下している自分がいることに、気づく練習が必要だと感じる。

気づいたのなら、そこから離れ、フラットになってみること。

それは、他者と対等になるということでもあるだろう。

 

 

カウンセラーといえども、これができる方は少ないと感じる。

 

幸いなことに、私は、この姿勢を自然に学べる方達がいる。

そこに生まれるものは、

信用、信頼、尊敬、そして感謝だ。

 

 

 

あなたは、人に侵入しすぎていないだろうか?

操作ではなく、共に在ることで生まれてくるもの。

 

 

あなたに何が起こっているのか?

知りたいと願い、集中する時、そこに自然に生まれてくる、気づきがあるのだと感じる。

 

 

それを共有できること、そんな喜びに満ちた機会となるよう、

 

私も、まだまだ新たな自分に出会いながら精進していきたいと思う。

気づきの効果

2019-04-28 08:01:00

いくつになっても

思春期は、親や先生などを、お手本にしながら作ってきた自分と、お別れをして、

「理想」と「失望」に葛藤しながら、新な自分を確立してゆきます。

 

「本当の自分って??」「自分は何をやりたいのか?」を模索していく時期です。

また、自分が他人にどう見られているかを意識する時期でもあり、色んな葛藤の中で最終的に、

自分は、こういう人間なんだということがわかっていきます。(自分自身を客観的な目で見られるようになる。)

 

その過程を経て、他者とは違った自分、たった一人の自分を作ることで、

他者の価値観に揺るがされない自分を手に入れていくのです。

 

「自分探しの旅」とは、よく言われることですが、結局、生きていれば、いくつになっても、このテーマにぶつかります。

 

特に女性は、結婚、出産、仕事を続けるか?親の介護はどうするか?などの

選択肢が多くなります。

自由に選べる時代になったからこそ現れる問題ともいえるでしょう。

 

更に、中年の危機といわれる40代~50代は、身体的な変調をはじめ、

子どもの自立に伴った母親役割を失う喪失感、

夫婦の共通目標であった、子育てを終える事で訪れる、関係のありかた等、

社会的な役割を離れることで、個としての生き方を問われる時期でもあります。

 

ここで、今まで未解決だったあなたの課題が浮上してくることがあります。

 

私が私として生きていくために、思春期のように、自分探しをする時期がまた、やってくるのです。

 

今まで気づけなかった(気づく事をしなかった)あなた自身に出会うための旅のお誘いです。

 

旅を、始めるか始めないかは、自分次第。

自分で選んで決断できる、自らが望む人生を手に入れたいのなら、いくつになっても遅すぎるという事はありません。

 

 

私は、セラピーをとおして、あなたが自分のために生きていく、

 

お手伝いをさせていただけたら嬉しいです。

いくつになっても

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