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2021/07/16

もぐもぐ ごっくん

もぐもぐ ごっくん

知りたいこと、気になること。

 

現代は、どこにいても簡単に、インターネットを利用すれば調べることができます。

手間をかけずに好きなだけ欲しい情報が手に入ります。

 

便利ではありますが、

誰かの言ったことをそのまま受け入れたり、何かに当てはめてしまうだけだと、

消化不良のようなもやもやが残る場合もあります。

 

 

人から聞いたことは本当であるとは限りません。

それは、その人の個人的な意見や体験だったりするからです。

 

丸呑みは消化不良を起こします。

 

鵜呑みにすること、を食べることに例えれば、

飲みこむ前に、まず、自分の歯で噛み砕くことが必要になるでしょう。

 

噛むことで、食物と唾液が混じり合って飲み込みやすい形状になります。

それが胃に取り込まれて消化されていきます。

 

外界から取り込んだものを、自分の栄養やエネルギーに変えるには、

まず、自分で咀嚼することが必要なのです。

 

疑問を持つこと、調べること、そして経験すること。

そんな身を持って体験する場が必要と感じます。

時間も手間も時にお金もかかるかもしれませんが、自分が体験して得られることは本物です。

 

体験することで磨かれるのは感覚です。

感覚と共にいることで、直感も冴えてきます。

直感は、危険を察知して身を守る動物的な性質のものから、

人間に与えられた創造性にまで繋がっているといわれます。

 

鈍った感覚を取り戻し、あなたの新たな未来に繋がる体験してみませんか?

 

2021/06/15

開かれた場

開かれた場

似たような悩みや苦しみを持つ人達が集まる自助グループや、

依存症からの回復を目指すプログラムに、ミーティングと呼ばれるものがある。

 

それは、テーマに沿って、一人ひとりが仲間に語っていくというものだ。

他者の発言に批判はしないこと、言いっ放し聞きっぱなし、がルール。

 

数年前、私はスタッフの一員として参加していた。

当初は、ただ語るだけで何か変わるとも思えないし、意味のあるものなのか?と怪訝に思っていた所もあった。

 

毎回毎回、淡々と繰り返される話に、退屈や、もどかしさや、緊張や、動揺や、

その時々に現れる自分の色々な思いや、感情と共にいながら、皆の話にただじっと耳を傾け続けていた。

 

そんなことを続けていると、次第に、抑揚のない淡々としたあの場に、力のような何かを感じとるようになった。

それは、一体感とも呼べるような気持ちの良さだった。

 

今になって思うとあれは、

まさしく解釈や判断や評価を脇に置いた場であった。

 

語る者も聞く者も、互いに気負いのない場。

何を言っても大丈夫な場。

反論されることもないし、同意を求められることもない。

安全や安心感そのものとも言えるような場。

それに皆が包まれているような雰囲気を感じ取るようになったのだ。

 

そこには、わざとらしい肯定や、やんわりとした否定もなく、

存在そのものを尊重されることで生命が流れ出し、1つどこかに向かうような感覚だった。

日常で繰り返される関係では味わえない、不思議な体験だったといえる。

 

少しペースを落として、言葉と言葉の間や沈黙に呼吸を合わせてじっと佇む。

その静けさと共にいると時が止まったようにも感じられる。

そこから生まれる深い癒しのようでもあった。

 

何者かにならなければ

から

何者にもならないへ

 

する、から、在る、へ、シフトしていく過程で起こること。

 

そんな力を信頼したセラピーを続けています。

 

2021/05/19

さよなら そして

さよなら そして

 

 自分が感じるまま思うまま、したいように行動することに抵抗を覚える人は多い。

 

こんなこと、自分のわがままではないか?

今まで手に入ったものが、失われてしまうのではないか?

世間一般から外れてしまうのではないか?

 

自分の基準?に沿うことは何より安心。

特に今まで困ったことはない。

皆と同じで間違いもなさそうだし、何とか社会に適応もしているし、まあ承認されていると感じるから。

 

でも・・・

時々やってくるこの思いは何だろう?

時に浮上するその思いを感じつつ、慌ただしい日々にいつしか疑問は消えていく。

 

 

目には見えない、根拠もない、未知なものに進む生き方は、綱渡りのような危険と勇気を必要とする。

でも、先行きのわからない時代を生きる私達には、安全や安心が保障されているわけでもない。

まして、明日も同じように生きられるとは限らない。

 

人は、本当の自分の欲求を知り、それを信頼することを怖がるけれど、

答えは自分の内にあって、何よりそれが一番正しいことを、本当は知っているのだと思う。

 

 

それに近づく過程を、孤独な作業にする必要はない。

あなたの思いや感情を加工することを求められる場ではなく、

そのまま、ありのまま、あなたでいることを許される場で、疑問はとけていくのだ。

 

 

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~サヨナラから始まることが沢山あるんだよ。~

2021/04/23

母 ママ お母さん

母 ママ お母さん

近くのスーパーマーケットに立ち寄った時のこと。

レジで支払いを済ませようと並んでいると、お菓子コーナーから、

大きな声で泣き叫ぶ子どもの声が聞こえてきた。

 

見ると、3~4歳だろうか?

男の子が床に仰向けになって、買って買って~!!と暴れている。

傍には母親らしき女性が1人。

 

母親は、暴れる子どもを静かに眺めるように立っていて、時折、淡々と何やら子どもに言って聞かせているようだ。

多分、想像するに今は買わないよ、というようなことだと思う。

 

その親子は、ちょっとした有名人らしく、店員さん同士で「久しぶりだね~」などと囁きあう声が聞える。

私の番がきて、支払いを済ませようとすると目の前に、さっきの親子がいる。

帰る様子だが、子どもは諦めきれないのか、出口で床に寝そべり、またワーワーと大声で泣いている。

どうするのだろう?と興味の湧いた私が見ていると、

一時泣いて、ようやくあきらめがついたのか、その子は母親が「おいで」と広げた胸の中に、泣きじゃくりながら飛び込んでいった。

それを眺めていた私の胸に、こみあげてくるものがあった。

 

子どもが同じくらいの時、私は、スーパーに行くのが嫌だった。

必ずと言っていいほど、子どもは買って買って!とせがんでくる。

買わないことを伝えても一緒だ。

買って買って!!と諦めない。

そんな時、私は大体根負けして買っていた。

それは、泣かれるのが嫌だったから。

その様子を周りに見られて、うるさいな、と思われるのが嫌だったからだ。

「もう知らない!!」を決め台詞に、その場からさっさと離れたこともあったな。

 

あの時の私。

 

子どもに寄り添うことなく、周囲の目を気にして、とりあえず、その場をやり過ごすことの繰り返しだったと思う。

どんな風に接したらいいのか、わからなかったともいえる。

 

あの母親のように、子どもの気持ちを聴きながらも、できること、できないことを示す。

子どもの感情を無視することなく、怒りで押さえつけず、逃げもしない。

ジッと見守って、最後に受け入れる。

あの母親の姿に、私は神々しさを感じた。

 

親子を見ながら私は、母としての自分を映し出していたのと同時に、

子ども時代を重ねていたのだろう、あの子どもに羨ましさを感じたりもした。

 

当たり前のことだが、

子どもを産んだからと言って、今までと違う自分になれるわけではない。

子育てを通して、できれば知りたくなかった歓迎されない、自分の部分に気づかされる時があるだろう。

だから、苦しいと感じるお母さんも多いのではないか、と思う。

 

母親たるものこうでなければ、という思い、責任ともいえるもの。

一方、本当はこうしたい、という自分の思いだってある。

どちらか片方だけならば苦しみは生まれない。

 

苦しさは、自分の劣等感や罪悪感によって起こる。

子どもを持つ以前から、自分にあった未消化の部分だと思う。

 

母なら当たり前に、やること、こなすこと。

常識、当たり前、普通と言われること。

周りはできて私にはできない、という無意識的な思い込みがそこにないだろうか。

 

子どもの成長によって環境や対人関係は変わっていく。

色々な役割が思いのほか多すぎて、混乱状態になることもあるだろう。

適応できない自分を恥じたり責めることによって、孤独を感じる子育ては、どれだけ辛いだろうと思う。

 

親だって苦手なことは沢山ある。

母たるものこうでなければ、から離れ、正直に飾らずパートナーや子どもに伝えてもいい。

 

色々な人がいるのだから、当たり前に色々な母親がいていいのだ。

お手本になるお母さんでなくても構わない。

え~!!って驚く位の個性的なママに魅力を感じることだってあるかもしれない。

 

あの、お母さんのようには、私は今もなれないだろう。笑

それでいい、それがいい。

 

子育ては、けして楽しいものではない(笑)と安心して言い合えるような場が、もっと増えたらいい。

そして、1人でも多くの人を、巻きこみながらする子育てが、これからもっと広がるようなお手伝いができればと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021/01/17

かくれんぼ

かくれんぼ

生活していくのに必要なこと。

 

例えば、食事の支度や掃除・洗濯。

毎日、こなしてはいるけれど面倒なことでもある。

 

 

家族やパートナーがいれば、

私ばかり、どうしてしなければいけないの?

とか、

私だって働いてるし、疲れてるのは一緒。

私の大変さをちっともわかってくれない。

等の思いが湧いてくることもあるだろう。

 

更に、子育てや介護が重なれば不満もまた大きくなる。

 

 

こんな時は、

   私ばかり・・

   私だって・・

   私しか・・・

私、私のてんこ盛り状態、それがイライラを連れてくる。

 

 

そこには、

相手に期待しすぎている私がいないだろうか?

 

 

たとえ親や兄弟、長く過ごした間柄でも、

それぞれの考え方や価値観や感情がある。
お互いを理解するためには、自分の気持ちや考え方を言葉で伝えたり、

行動で表すことが必要になる。

 

 

頭では理解しているつもりでも、これがなかなか難しい。

特に、この思いが強すぎて困難を抱える方もいる。

 

 

それは、突然の怒りという形でやってくるかもしれない。

 

 

一体、

何が起こっているのだろう?

 

 

そこには、何も言わなくても、

私のしてほしい事を察知してほしい!

わかるのが当たり前でしょ。

という強い願いのようなものがあるのではないだろうか。

 

 

私と他者の境界が曖昧になってしまう時ともいえる。

 

 

「気づいてくれない」

「関心を持ってくれない」

「気遣ってくれない」

「大事にしてくれない」

更に進むと、

「誰も私の事をわかってくれない!」という絶望的な思いも見え隠れする。

 

 

そもそも、

手伝ってもらう選択肢だってあるのに、

頼めないのはなぜだろう?

伝えないのは何故だろう?

負担を減らし、楽しく生活するにはどうすればいいか?

建設的に話し合ってもいいのに。

何も言えない子どもじゃないのに・・

 

 

伝えることを邪魔するものって何?

 

 

どうせ言っても聞いてもらえないから?

怒って否定されて終わりだから?

苦手意識?罪悪感?

 

 

 

私がしてほしいことを伝えることなく、

黙っていたままで、

相手に全てを受け入れてほしいという思い。

特に親しい間柄で、強く現れてくること。

 

 

これは、

どこまでも深く愛情を求め続けている状態ともいえる。

 

 

悲しみ・絶望・放棄・虚しさ・孤独・憎悪

沢山の心の傷が疼く時でもある。

過去に繋がって、今でも起こっているもの。

 

 

あなたの内にあって、見え隠れする小さな者たち。

 

 

心理セラピーは、

かくれんぼのように、あなたの内に隠れた、

小さな子ども達を見つけていくことに似ている。

 

 

中には、鬼の声が届かない遠~い所に、隠れている子どもだっている。

見つからないように息をひそめて、じーっとしているそんな子には、

そ~っと、少しずつ、静かに、1歩ずつ近づく慎重さも必要になる。

見つけることから少し距離を置いて、その気配に気づくだけでいいこともある。

 

大切なのは、見離さないで置き去りにしないことなのだ。

 

 

隠れているのは一体どんな子?

見つけたその子に、ただ寄り添うことで一体、何が起こるだろう?

 

 

これまで生きてこられた、あなたが、あなたにいまできること。

そんな尊い体験をご一緒させていただけることを願っています。

 

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