悪いものとして排除されがちな感情の1つに怒りがあります。
怒りを向ける人も、向けられた人も、突然現れる怒りには太刀打ちできないかもしれません。
それだけ怒りは強い力を持っているのでしょう。
怒りを持つこと自体は悪いことでもありません。
ただ、自分が怒りそのものになってしまうと、相手を傷つけ自分をも傷つけてしまうことになります。
身体は知っています。
怒りが現れる意味を。
ゲシュタルト療法には、怒りになってみるというワークがあります。
何故、怒りが起こるかを分析したり、怒りについて話すのではなく、
怒りを忌み嫌わず、興味を持って接し表現してみます。
「怒り」そのものになってみる、と何が現れるか?実験してみるのです。
また、フォーカシングのように、少し時間をとって怒りと共に佇むと、内にどんな感じが起こるのか?
興味を持って注意を向けてみます。
評価や判断、解釈などの考えが浮かんで来たら、それはそのままに、身体はどう感じているか?に焦点をあて直してみます。
怒りを表現することに抵抗を感じる方もいるでしょう。
怖い、格好悪い、恥ずかしい、馬鹿馬鹿しい、などの気持ちや感情が湧くかもしれません。
それはそれで、大切なあなたの気づきなのです。
その場で現れるものをけして無いものにせず、マインドフルな姿勢で関わる場。
幾層にも重なった心の内に、ゆっくり触れていく体験です。
そのままありのまま、現れるものに、ただ気づき、出会っていく過程で起こる力を信頼したセラピーを行っています。
怒りは、一体、あなたに何を伝えたいのでしょうか?
自分が感じるまま思うまま、したいように行動することに抵抗を覚える人は多い。
こんなこと、自分のわがままではないか?
今まで手に入ったものが、失われてしまうのではないか?
世間一般から外れてしまうのではないか?
自分の基準?に沿うことは何より安心。
特に今まで困ったことはない。
皆と同じで間違いもなさそうだし、何とか社会に適応もしているし、まあ承認されていると感じるから。
でも・・・
時々やってくるこの思いは何だろう?
時に浮上するその思いを感じつつ、慌ただしい日々にいつしか疑問は消えていく。
目には見えない、根拠もない、未知なものに進む生き方は、綱渡りのような危険と勇気を必要とする。
でも、先行きのわからない時代を生きる私達には、安全や安心が保障されているわけでもない。
まして、明日も同じように生きられるとは限らない。
人は、本当の自分の欲求を知り、それを信頼することを怖がるけれど、
答えは自分の内にあって、何よりそれが一番正しいことを、本当は知っているのだと思う。
それに近づく過程を、孤独な作業にする必要はない。
あなたの思いや感情を加工することを求められる場ではなく、
そのまま、ありのまま、あなたでいることを許される場で、疑問はとけていくのだ。
生活していくのに必要なこと。
例えば、食事の支度や掃除・洗濯。
毎日、こなしてはいるけれど面倒なことでもある。
家族やパートナーがいれば、
私ばかり、どうしてしなければいけないの?
とか、
私だって働いてるし、疲れてるのは一緒。
私の大変さをちっともわかってくれない。
等の思いが湧いてくることもあるだろう。
更に、子育てや介護が重なれば不満もまた大きくなる。
こんな時は、
私ばかり・・
私だって・・
私しか・・・
私、私のてんこ盛り状態、それがイライラを連れてくる。
そこには、
相手に期待しすぎている私がいないだろうか?
たとえ親や兄弟、長く過ごした間柄でも、それぞれの考え方や価値観や感情がある。
お互いを理解するためには、自分の気持ちや考え方を言葉で伝えたり、行動することが必要になる。
頭では理解しているつもりでも、これがなかなか難しい。
特に、この思いが強すぎて困難を抱える方もいる。
それは、突然の怒りという形でやってくるかもしれない。
一体、
何が起こっているのだろう?
そこには、何も言わなくても、
私のしてほしい事を察知してほしい!
わかるのが当たり前でしょ。
という強い願いのようなものがあるのではないだろうか。
私と他者の境界が曖昧になってしまう時ともいえる。
「気づいてくれない」
「関心を持ってくれない」
「気遣ってくれない」
「大事にしてくれない」
更に進むと、
「誰も私の事をわかってくれない!」という絶望的な思いも見え隠れする。
そもそも、子育ては共同作業。
なのに、頼めないのはなぜだろう?
伝えないのは何故だろう?
負担を減らし、楽しく生活するにはどうすればいいか?
建設的に話し合ってもいいのに。
何も言えない子どもじゃないのに・・
伝えることを邪魔するものって何?
どうせ言っても聞いてもらえないから?
怒って否定されて終わりだから?
苦手意識?罪悪感?
私がしてほしいことを伝えることなく、
黙っていたままで、
相手に全てを受け入れてほしいという思い。
特に親しい間柄で、強く現れてくること。
これは、
どこまでも深く愛情を求め続けている状態ともいえる。
悲しみ・絶望・放棄・虚しさ・孤独・憎悪
沢山の心の傷が疼く時でもある。
過去に繋がって、今でも起こっているもの。
あなたの内にあって、見え隠れする小さな者たち。
心理セラピーは、
かくれんぼのように、あなたの内に隠れた、
小さな子ども達を見つけていくことに似ている。
中には、鬼の声が届かない遠~い所に、隠れている子どもだっている。
見つからないように息をひそめて、じーっとしているそんな子には、
そ~っと、少しずつ、静かに、1歩ずつ近づく慎重さも必要になる。
見つけることから少し距離を置いて、その気配に気づくだけでいいこともある。
大切なのは、見離さないで置き去りにしないことなのだ。
隠れているのは一体どんな子?
見つけたその子に、ただ寄り添うことで一体、何が起こるだろう?
これまで生きてこられた、あなたが、あなたにいまできること。
そんな尊い体験をご一緒させていただけることを願っています。
相手を知りたいと思う時は、まだ知らない(気づいていない)
自分を知る予感かもしれない。
相手を通して自分を知る。
苦手な人も、憧れの人も・・・
相手に映し出しているものは、
自分が抑えている認めたくないものだったり、
反面、
また発揮できていない魅力だったりもする。
他者に興味を持つことは、
自分に興味を持つことでもある。
愛の反対は無関心だ。と、マザーテレサは言ったけれど、
自分に起こっていることに、無関心を装うのは悲しい事だと思う。
私が繋がっていくこと。
その道のりは、けして平坦なものではない。
進んだり戻ったりを繰り返しながら、
いつの間にか楽になっている自分に気づいていく。
人間関係で繰り返してしまう癖のようなもの。
それは、相手が変わっても、また必ず出てきてしまう。
運命の人を捜しあてたところで、結局は一緒なのだと思う。
繰り返されることは、実は自分が繰り返しているのだから。
「気づいてほしい」「わかってほしい」
言えなかったこと、伝えられなかったこと。
それを言ったところで、無理だと諦めてしまったこと。
その思いは、ずっとずっと、心の奥にしまいこまれたまま、
表に出てくるのを待っている。
あの時、
私は何を言いたかったのだろう?
何を望んでいたのだろう?
何をしたかったのだろう?
怒りや、悲しみを引き起こす、その奥にあったもの。
そこに興味を持っていくこと。
触れられる機会がなかった代わりに、
感情や感覚を飲み込み、切り離して、
適応する技ばかりが磨かれてきたけれど、
それは、消えることなく今も残り続けている。
私を思い出していくこと。
それは、あなたが本来持つ力を取り戻すことでもあり、
愛を思い起こす尊い体験となっていくだろう。
自分の感情や思いを、否定してしまうって何だろう?
×をつける、ダメだしをするって、自分へのいじめなのに・・・
わざわざ×をつけるって?
自分いじめは、こうでなきゃ!とか、こういうものだ!
という「正しさ」に反応している。
過去の辛い経験や、うすうす感じている自分の嫌な部分に反応しているようだ。
過去、自分に×(罰)を与えることで、誰かを守ってきた経験があったのかもしれない。
(結局、それは、自分を守るためにしてきたことなのだけれど)
気づきが深まってくると、
嫌な自分を感じることさえも許せない、自分がいることに気づくことがある。
このダブルいじめの罠にはまるのは、相当に辛い。
こんな自分だから愛されないのだ、だから上手くいかないのだ、等と思って、
今まで何とか治そうと、頑張ってきたこともあったかもしれない。
嫌な感情や記憶や感覚は、普段、見て見ぬふりされているようにできている。
(生きていくために、もともと備わった機能)
だから、気づきが進むということは、けして良い気持ちをもたらすだけではない。
今までの方法や思考にとどまることが、何より安心というのは当たり前のことなのだ。
でも、嫌な感情や思いや感覚が表れてきたとき、
それは、もっと私を見て!ってサインなのだと思う。
どういう時に、どんな感情が湧き、どのような価値観から、その感情が引き起こされるのか?
自分に起こることを、ほんの少しでも認めてやること。
認めるまでいかなくても、それと少し一緒にいることを試してみること。
意識は繋がっているから、嫌な部分に光が当たる(意識する)ことで、
一方通行だった流れが変化し、交流し始めることで循環していく。
気づきが進んで、交流ができると、繋がりは自然に起こってくる。
今まで、ばらばらだった気持が、交流することによって訪れる安堵感。
それは、あるがままの自分と共に在ることの一体感がもたらす、心の平和ともいえる。