「ゲシュタルトの祈り」
わたしは、わたしの人生を生きる。
あなたは、あなたの人生を生きる。
わたしは、あなたの期待に応えるために、この世に生きているわけではない。
あなたも、わたしの期待に応えるために、この世に生きているわけではない。
わたしは、わたしです。
あなたは、あなたです
もし、偶然お互いが出逢えば、それは素晴らしい。
もし、出逢えなくても、それもまた良し。
出典:守谷 京子 「初めて出逢う自己像」
ゲシュタルト療法の創始者である、フレデリックパールズのゲシュタルトの詩。
あなたは、どのような印象を受けるでしょうか?
私は当初、冷ややかで、淡々として、殺風景で、他者を寄せ付けない、何か寂しさのようなものを感じたりもしました。
いまは、その思いも残しつつ新たに、割り切った、こだわりのない思い切りの良さ、潔さ、肝の据わった力強さ、自由さを感じます。
人間関係で必ず現れる境界の問題。
私とあなたの距離を意識されたことがあるでしょうか。
わかりやすい所では、パーソナルスペースと言われる、他者が近づくことで現れる不快な空間や距離。
人それぞれ感じ方に違いはあれども、ご自分はどうなのか?意識してみると良いかもしれませんね。
もちろん、距離が遠いから近いから、どちらが良い悪いということではありません。
何故なら、自分と相手の安心な距離は違うからです。
更に言うなら、自分の内の安心の種が育っている方もいるし、そうでない方もいる。
しかも、種を育てる器の耐久性(安全)にも関係するからです。
例えば、親密な関係になりたい相手とは、距離を縮めたいと願い、互いに関係を深めていくでしょう。
でも、実は近づかれることに抵抗があるのに、断れなかったり。
そもそも、関係を深めたいのかもわからない・・・なんてこともあるかもしれません。
これは、自分と他者。わたしとあなたの境界が曖昧になってしまう時、
更に、安心の種が育つはずの器が弱い事も関係します。
相手の事をあれこれ詮索したり、全て把握しないと落ち着かない。とか、
相手の意思を聞かず、自分の思う通りに先回りしてやってしまう。とか、
相手の問題を自分が肩代わりする。とか、
相手の望むことを優先させて、自分を満足させる。とか、
自分の欲求を伝えずに、相手を動かそうとする。とか。
もともと持つ素質や、おかれた環境もあいまって、勝手に侵入する、侵入される。
それって、案外、日常に溢れているのではないでしょうか。
また、こんなこともあります。
侵入される感じがわからない。
逆に過敏に侵入されたと感じ、攻撃的(防衛)になる。
そもそも器(自我)が育たないと、わたしは曖昧なものです。
器が育つことで、はじめて、わたしを体験することができるので、
その時々に他者との距離は自分で決められるようになります。
忖度の言葉に表されるように、相手の気持ちを推し量る、相手の立場になって考えるなど、
馴染みの教えで育ってきた者としては、相手に合わせることばかりをしてきた付けが回り、
わたしに出合うことを遠ざけてきた、と言えるのかもしれないですね。
他者との関係を築くには、結局、相手に尋ねていく、対話を続けることでしか、
相手の真意はわからないし、そもそも本当に理解しあうことはできないのかもしれません。
それでも、人は誰かに何かに出会いたい。
そのために、自分と出合う時が必ずやってくるのでしょう。
他者との違いを感じることは、普通に起こります。
それを感じた時、自分の内に何が起こっているのか?興味や好奇心、関心を持って、見つけていくのです。
わたしに出合う。
あなたもあなたに出合う。
真の出会いは、そこから起こるのです。
そんな厄介で面倒で複雑で、実はシンプルな世界を、楽しく美しく素晴らしいものに変えていくことは、
人に生まれた醍醐味でしょう。
パールズの詩は、そんな力強いメッセージのように感じます。
一体、どうしたらよいのか?
神頼みで、いつか引いたおみくじ。
そこにあった「兆し」の文字。
良い兆し?悪い兆し?どちらなのだろう?
その意味が分からず、
答えを求めモヤモヤが残った。
一刻も早く楽になりたい、と願いながら、もがきながら、
繰り返される毎日を淡々と過ごすしかなかった。
何かの出来事によって、もたらされる困りごと。
いま、あなたに起こっていること。
それは、あなたへのメッセージ。
あまり歓迎されない出来事によって、やってくるもの。
正しい⇔間違い
良い⇔悪い
勝ち⇔負け
強い⇔弱い
分断させて、裁いたり裁かれたりすることで起こる悲しみや苦しみ。
分断された、それぞれの欲求を十分に満たしていく実験のような場。
いまここに現れる気持ちや、思いや、感情、体の感じ。
それと一緒に、沈黙とひととき過ごしてみる。
そこに現れる思いや気持ち。
どんな些細なものや、矛盾していたって構わない。
大切なのは、起きていることを無いものにしないことなのだ。
どれだけあなたが表現するのか?
安心感を大事にすることも勿論あっていいし、
少しだけ勇気を出して試してみるのもいい。
できない!と断ってもいい。
行きつ戻りつする、ありのままの体験に触れる力がもたらすもの。
身動きが出来ず、窮屈で息苦しく、
真っ暗で、先の見えない不安に眼差しを向けていこう。
それが、既にあなたの兆しだから。
本来、誰にでも備わった恵み。
それを思いだす過程を、ご一緒させていただけたら嬉しいです。
悪いものとして排除されがちな感情の1つに怒りがあります。
怒りを向ける人も、向けられた人も、突然現れる怒りには太刀打ちできないかもしれません。
それだけ怒りは強い力を持っているのでしょう。
怒りを持つこと自体は悪いことでもありません。
ただ、自分が怒りそのものになってしまうと、相手を傷つけ自分をも傷つけてしまうことになります。
身体は知っています。
怒りが現れる意味を。
ゲシュタルト療法には、怒りになってみるというワークがあります。
何故、怒りが起こるかを分析したり、怒りについて話すのではなく、
怒りを忌み嫌わず、興味を持って接し表現してみます。
「怒り」そのものになってみる、と何が現れるか?実験してみるのです。
また、フォーカシングのように、少し時間をとって怒りと共に佇むと、内にどんな感じが起こるのか?
興味を持って注意を向けてみます。
評価や判断、解釈などの考えが浮かんで来たら、それはそのままに、身体はどう感じているか?に焦点をあて直してみます。
怒りを表現することに抵抗を感じる方もいるでしょう。
怖い、格好悪い、恥ずかしい、馬鹿馬鹿しい、などの気持ちや感情が湧くかもしれません。
それはそれで、大切なあなたの気づきなのです。
その場で現れるものをけして無いものにせず、マインドフルな姿勢で関わる場。
幾層にも重なった心の内に、ゆっくり触れていく体験です。
そのままありのまま、現れるものに、ただ気づき、出会っていく過程で起こる力を信頼したセラピーを行っています。
怒りは、一体、あなたに何を伝えたいのでしょうか?
自分が感じるまま思うまま、したいように行動することに抵抗を覚える人は多い。
こんなこと、自分のわがままではないか?
今まで手に入ったものが、失われてしまうのではないか?
世間一般から外れてしまうのではないか?
自分の基準?に沿うことは何より安心。
特に今まで困ったことはない。
皆と同じで間違いもなさそうだし、何とか社会に適応もしているし、まあ承認されていると感じるから。
でも・・・
時々やってくるこの思いは何だろう?
時に浮上するその思いを感じつつ、慌ただしい日々にいつしか疑問は消えていく。
目には見えない、根拠もない、未知なものに進む生き方は、綱渡りのような危険と勇気を必要とする。
でも、先行きのわからない時代を生きる私達には、安全や安心が保障されているわけでもない。
まして、明日も同じように生きられるとは限らない。
人は、本当の自分の欲求を知り、それを信頼することを怖がるけれど、
答えは自分の内にあって、何よりそれが一番正しいことを、本当は知っているのだと思う。
それに近づく過程を、孤独な作業にする必要はない。
あなたの思いや感情を加工することを求められる場ではなく、
そのまま、ありのまま、あなたでいることを許される場で、疑問はとけていくのだ。
生活していくのに必要なこと。
例えば、食事の支度や掃除・洗濯。
毎日、こなしてはいるけれど面倒なことでもある。
家族やパートナーがいれば、
私ばかり、どうしてしなければいけないの?
とか、
私だって働いてるし、疲れてるのは一緒。
私の大変さをちっともわかってくれない。
等の思いが湧いてくることもあるだろう。
更に、子育てや介護が重なれば不満もまた大きくなる。
こんな時は、
私ばかり・・
私だって・・
私しか・・・
私、私のてんこ盛り状態、それがイライラを連れてくる。
そこには、
相手に期待しすぎている私がいないだろうか?
たとえ親や兄弟、長く過ごした間柄でも、それぞれの考え方や価値観や感情がある。
お互いを理解するためには、自分の気持ちや考え方を言葉で伝えたり、行動することが必要になる。
頭では理解しているつもりでも、これがなかなか難しい。
特に、この思いが強すぎて困難を抱える方もいる。
それは、突然の怒りという形でやってくるかもしれない。
一体、
何が起こっているのだろう?
そこには、何も言わなくても、
私のしてほしい事を察知してほしい!
わかるのが当たり前でしょ。
という強い願いのようなものがあるのではないだろうか。
私と他者の境界が曖昧になってしまう時ともいえる。
「気づいてくれない」
「関心を持ってくれない」
「気遣ってくれない」
「大事にしてくれない」
更に進むと、
「誰も私の事をわかってくれない!」という絶望的な思いも見え隠れする。
そもそも、子育ては共同作業。
なのに、頼めないのはなぜだろう?
伝えないのは何故だろう?
負担を減らし、楽しく生活するにはどうすればいいか?
建設的に話し合ってもいいのに。
何も言えない子どもじゃないのに・・
伝えることを邪魔するものって何?
どうせ言っても聞いてもらえないから?
怒って否定されて終わりだから?
苦手意識?罪悪感?
私がしてほしいことを伝えることなく、
黙っていたままで、
相手に全てを受け入れてほしいという思い。
特に親しい間柄で、強く現れてくること。
これは、
どこまでも深く愛情を求め続けている状態ともいえる。
悲しみ・絶望・放棄・虚しさ・孤独・憎悪
沢山の心の傷が疼く時でもある。
過去に繋がって、今でも起こっているもの。
あなたの内にあって、見え隠れする小さな者たち。
心理セラピーは、
かくれんぼのように、あなたの内に隠れた、
小さな子ども達を見つけていくことに似ている。
中には、鬼の声が届かない遠~い所に、隠れている子どもだっている。
見つからないように息をひそめて、じーっとしているそんな子には、
そ~っと、少しずつ、静かに、1歩ずつ近づく慎重さも必要になる。
見つけることから少し距離を置いて、その気配に気づくだけでいいこともある。
大切なのは、見離さないで置き去りにしないことなのだ。
隠れているのは一体どんな子?
見つけたその子に、ただ寄り添うことで一体、何が起こるだろう?
これまで生きてこられた、あなたが、あなたにいまできること。
そんな尊い体験をご一緒させていただけることを願っています。