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こころの多様性
現代社会では、多様性の理解、尊重、協働が求められています。
とはいえ、他者との違いを受け入れることは、容易でないと感じる方も多いかもしれません。
他者と出会うとは、私とあなたの違いに出あうことでもあります。
ですから、他者との関わりで、思い悩んだり心かき乱されるのは日常茶飯事でしょう。
でも、受け入れがたい人とは、自分を知るきっかけになる人でもあります。
心理学で言われる投影といわれるもの。
自分の内にある認め難い衝動や感情を、他者が持っていると押し付けることで自分を守る防衛機制の1つです。
ユング心理学で言われる影とも関連しています。
影は、自分の内にある否定的な側面です。
自分の内にある認めがたいもの。
それが、相手に映されることで苦しみが生まれます。
内なる影 。
排除しようとする対象は、ずっと自分の内にあるもの。
場合によっては、うっすらとそれを感じることもあるでしょうし、表舞台に現れることなくずっと奥にしまい込まれたものもあります。
あなたにはあって、私にはない。
私にはあって、あなたにはない。
あなたが他者に感じる違和感を、まずは大切にしましょう。
それは、あなたの内にある様々な存在との出会いのきっかけでもあるからです。
いまここ現れる嫌なものに興味を持って、それと居てみる体験。
これは何だろう?っていう好奇心を武器に、それらと交流を試す体験。
いずれも、あなたの内の影に光を当ててみる体験です。
それは、コインの表と裏のようなもの。
相反するものではなく1つの側面なのです。
自分の内の多様性に気づき受け止められるようになること。
内なるわたしへの理解、尊重、協働。
それは、きっと他者にも開かれることとなり、真の出会いに繋がっていくことでしょう。
わたしとあなたの距離
「ゲシュタルトの祈り」
わたしは、わたしの人生を生きる。
あなたは、あなたの人生を生きる。
わたしは、あなたの期待に応えるために、この世に生きているわけではない。
あなたも、わたしの期待に応えるために、この世に生きているわけではない。
わたしは、わたしです。
あなたは、あなたです
もし、偶然お互いが出逢えば、それは素晴らしい。
もし、出逢えなくても、それもまた良し。
出典:守谷 京子 「初めて出逢う自己像」
ゲシュタルト療法の創始者である、フレデリックパールズのゲシュタルトの詩。
あなたは、どのような印象を受けるでしょうか?
私は当初、冷ややかで、淡々として、殺風景で、他者を寄せ付けない、何か寂しさのようなものを感じたりもしました。
いまは、その思いも残しつつ新たに、割り切った、こだわりのない思い切りの良さ、潔さ、肝の据わった力強さ、自由さを感じます。
人間関係で必ず現れる境界の問題。
私とあなたの距離を意識されたことがあるでしょうか。
わかりやすい所では、パーソナルスペースと言われる、他者が近づくことで現れる不快な空間や距離。
人それぞれ感じ方に違いはあれども、ご自分はどうなのか?意識してみると良いかもしれませんね。
もちろん、距離が遠いから近いから、どちらが良い悪いということではありません。
何故なら、自分と相手の安心な距離は違うからです。
更に言うなら、自分の内の安心の種が育っている方もいるし、そうでない方もいる。
しかも、種を育てる器の耐久性(安全)にも関係するからです。
例えば、親密な関係になりたい相手とは、距離を縮めたいと願い、互いに関係を深めていくでしょう。
でも、実は近づかれることに抵抗があるのに、断れなかったり。
そもそも、関係を深めたいのかもわからない・・・なんてこともあるかもしれません。
これは、自分と他者。わたしとあなたの境界が曖昧になってしまう時、
更に、安心の種が育つはずの器が弱い事も関係します。
相手の事をあれこれ詮索したり、全て把握しないと落ち着かない。とか、
相手の意思を聞かず、自分の思う通りに先回りしてやってしまう。とか、
相手の問題を自分が肩代わりする。とか、
相手の望むことを優先させて、自分を満足させる。とか、
自分の欲求を伝えずに、相手を動かそうとする。とか。
もともと持つ素質や、おかれた環境もあいまって、勝手に侵入する、侵入される。
それって、案外、日常に溢れているのではないでしょうか。
また、こんなこともあります。
侵入される感じがわからない。
逆に過敏に侵入されたと感じ、攻撃的(防衛)になる。
そもそも器が育たないと、わたしは曖昧なものです。
器が育つことで、はじめて、わたしを体験することができるので、
その時々に他者との距離は自分で決められるようになります。
忖度の言葉に表されるように、相手の気持ちを推し量る、相手の立場になって考えるなど、
馴染みの教えで育ってきた者としては、相手に合わせることばかりをしてきた付けが回り、
わたしに出合うことを遠ざけてきた、と言えるかもしれないですね。
他者との関係を築くには、結局、相手に尋ねていく、対話を続けることでしか、
相手の真意はわからないし、そもそも本当に理解しあうことはできないのかもしれません。
それでも、人は誰かに何かに出会いたい。
そのために、自分と出合う時が必ずやってくるのでしょう。
他者との違いを感じることは、普通に起こります。
それを感じた時、自分の内に何が起こるのか?興味や好奇心、関心を持って、見つけていくのです。
わたしに出合う。
あなたもあなたに出合う。
真の出会いは、そこから起こるのです。
そんな厄介で面倒で複雑で、実はシンプルな世界を、楽しく美しく素晴らしいものに変えていくことは、
人に生まれた醍醐味でしょう。
パールズの詩は、そんな力強いメッセージのように感じます。
兆し
一体、どうしたらよいのか?
神頼みで、いつか引いたおみくじ。
そこにあった「兆し」の文字。
良い兆し?悪い兆し?どちらなのだろう?
その意味が分からず、
答えを求めモヤモヤが残った。
一刻も早く楽になりたい、と願いながら、もがきながら、
繰り返される毎日を淡々と過ごすしかなかった。
何かの出来事によって、もたらされる困りごと。
いま、あなたに起こっていること。
それは、あなたへのメッセージ。
あまり歓迎されない出来事によって、やってくるもの。
正しい⇔間違い
良い⇔悪い
勝ち⇔負け
強い⇔弱い
分断させて、裁いたり裁かれたりすることで起こる悲しみや苦しみ。
分断された、それぞれの欲求を十分に満たしていく実験のような場。
いまここに現れる気持ちや、思いや、感情、体の感じ。
それと一緒に、沈黙とひととき過ごしてみる。
そこに現れる思いや気持ち。
どんな些細なものや、矛盾していたって構わない。
大切なのは、起きていることを無いものにしないことなのだ。
どれだけあなたが表現するのか?
安心感を大事にすることも勿論あっていいし、
少しだけ勇気を出して試してみるのもいい。
できない!と断ってもいい。
行きつ戻りつする、ありのままの体験に触れる力がもたらすもの。
身動きが出来ず、窮屈で息苦しく、
真っ暗で、先の見えない不安に眼差しを向けていこう。
それが、既にあなたの兆しだから。
本来、誰にでも備わった恵み。
それを思いだす過程を、ご一緒させていただけたら嬉しいです。
怒り 祈り
悪いものとして排除されがちな感情の1つに怒りがあります。
怒りを向ける人も、向けられた人も、突然現れる怒りには太刀打ちできないかもしれません。
それだけ怒りは強い力を持っているのでしょう。
怒りを持つこと自体は悪いことでもありません。
ただ、自分が怒りそのものになってしまうと、相手を傷つけ自分をも傷つけてしまうことになります。
身体は知っています。
怒りが現れる意味を。
ゲシュタルト療法には、怒りになってみるというワークがあります。
何故、怒りが起こるかを分析したり、怒りについて話すのではなく、
怒りを忌み嫌わず、興味を持って接し表現してみます。
「怒り」そのものになってみる、と何が現れるか?実験してみるのです。
また、フォーカシングのように、少し時間をとって怒りと共に佇むと、内にどんな感じが起こるのか?
興味を持って注意を向けてみます。
評価や判断、解釈などの考えが浮かんで来たら、それはそのままに、身体はどう感じているか?に焦点をあて直してみます。
怒りを表現することに抵抗を感じる方もいるでしょう。
怖い、格好悪い、恥ずかしい、馬鹿馬鹿しい、などの気持ちや感情が湧くかもしれません。
それはそれで、大切なあなたの気づきなのです。
その場で現れるものをけして無いものにせず、マインドフルな姿勢で関わる場。
幾層にも重なった心の内に、ゆっくり触れていく体験です。
そのままありのまま、現れるものに、ただ気づき、出会っていく過程で起こる力を信頼したセラピーを行っています。
怒りは、一体、あなたに何を伝えたいのでしょうか?
さよなら そして
自分が感じるまま思うまま、したいように行動することに抵抗を覚える人は多い。
こんなこと、自分のわがままではないか?
今まで手に入ったものが、失われてしまうのではないか?
世間一般から外れてしまうのではないか?
自分の基準?に沿うことは何より安心。
特に今まで困ったことはない。
皆と同じで間違いもなさそうだし、何とか社会に適応もしているし、まあ承認されていると感じるから。
でも・・・
時々やってくるこの思いは何だろう?
時に浮上するその思いを感じつつ、慌ただしい日々にいつしか疑問は消えていく。
目には見えない、根拠もない、未知なものに進む生き方は、綱渡りのような危険と勇気を必要とする。
でも、先行きのわからない時代を生きる私達には、安全や安心が保障されているわけでもない。
まして、明日も同じように生きられるとは限らない。
人は、本当の自分の欲求を知り、それを信頼することを怖がるけれど、
答えは自分の内にあって、何よりそれが一番正しいことを、本当は知っているのだと思う。
それに近づく過程を、孤独な作業にする必要はない。
あなたの思いや感情を加工することを求められる場ではなく、
そのまま、ありのまま、あなたでいることを許される場で、疑問はとけていくのだ。