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2022-08-15 22:13:00

怒り 祈り

悪いものとして排除されがちな感情の1つに怒りがあります。

 

怒りを向ける人も、向けられた人も、突然現れる怒りには太刀打ちできないかもしれません。

それだけ怒りは強い力を持っているのでしょう。

 

怒りを持つこと自体は悪いことでもありません。

ただ、自分が怒りそのものになってしまうと、相手を傷つけ自分をも傷つけてしまうことになります。

 

身体は知っています。

怒りが現れる意味を。

 

ゲシュタルト療法には、怒りになってみるというワークがあります。

何故、怒りが起こるかを分析したり、怒りについて話すのではなく、

怒りを忌み嫌わず、興味を持って接し表現してみます。

「怒り」そのものになってみる、と何が現れるか?実験してみるのです。

 

また、フォーカシングのように、少し時間をとって怒りと共に佇むと、内にどんな感じが起こるのか?

興味を持って注意を向けてみます。

 

評価や判断、解釈などの考えが浮かんで来たら、それはそのままに、身体はどう感じているか?に焦点をあて直してみます。

 

 

怒りを表現することに抵抗を感じる方もいるでしょう。

怖い、格好悪い、恥ずかしい、馬鹿馬鹿しい、などの気持ちや感情が湧くかもしれません。

それはそれで、大切なあなたの気づきなのです。

 

その場で現れるものをけして無いものにせず、マインドフルな姿勢で関わる場。

 幾層にも重なった心の内に、ゆっくり触れていく体験です。

そのままありのまま、現れるものに、ただ気づき、出会っていく過程で起こる力を信頼したセラピーを行っています。

 

 怒りは、一体、あなたに何を伝えたいのでしょうか?

 

 怒り 祈り

 

 

2021-05-19 00:00:00

さよなら そして

自分が感じるまま思うまま、したいように行動することに抵抗を覚える人は多い。

 

こんなこと、自分のわがままではないか?

今まで手に入ったものが、失われてしまうのではないか?

世間一般から外れてしまうのではないか?

 

自分の基準?に沿うことは何より安心。

特に今まで困ったことはない。

皆と同じで間違いもなさそうだし、何とか社会に適応もしているし、まあ承認されていると感じるから。

 

でも・・・

時々やってくるこの思いは何だろう?

時に浮上するその思いを感じつつ、慌ただしい日々にいつしか疑問は消えていく。

 

 

目には見えない、根拠もない、未知なものに進む生き方は、綱渡りのような危険と勇気を必要とする。

でも、先行きのわからない時代を生きる私達には、安全や安心が保障されているわけでもない。

まして、明日も同じように生きられるとは限らない。

 

人は、本当の自分の欲求を知り、それを信頼することを怖がるけれど、

答えは自分の内にあって、何よりそれが一番正しいことを、本当は知っているのだと思う。

 

 

それに近づく過程を、孤独な作業にする必要はない。

あなたの思いや感情を加工することを求められる場ではなく、

 

そのまま、ありのまま、あなたでいることを許される場で、疑問はとけていくのだ。

さよなら そして

2021-01-17 17:37:00

かくれんぼ

生活していくのに必要なこと。

 

例えば、食事の支度や掃除・洗濯。

毎日、こなしてはいるけれど面倒なことでもある。

 

 

家族やパートナーがいれば、

私ばかり、どうしてしなければいけないの?

とか、

私だって働いてるし、疲れてるのは一緒。

私の大変さをちっともわかってくれない。

等の思いが湧いてくることもあるだろう。

 

更に、子育てや介護が重なれば不満もまた大きくなる。

 

 

こんな時は、

   私ばかり・・

   私だって・・

   私しか・・・

私、私のてんこ盛り状態、それがイライラを連れてくる。

 

 

そこには、

相手に期待しすぎている私がいないだろうか?

 

 

たとえ親や兄弟、長く過ごした間柄でも、それぞれの考え方や価値観や感情がある。

お互いを理解するためには、自分の気持ちや考え方を言葉で伝えたり、行動することが必要になる。

 

 

頭では理解しているつもりでも、これがなかなか難しい。

特に、この思いが強すぎて困難を抱える方もいる。

 

 

それは、突然の怒りという形でやってくるかもしれない。

 

 

一体、

何が起こっているのだろう?

 

 

そこには、何も言わなくても、

私のしてほしい事を察知してほしい!

わかるのが当たり前でしょ。

という強い願いのようなものがあるのではないだろうか。

 

 

私と他者の境界が曖昧になってしまう時ともいえる。

 

 

「気づいてくれない」

「関心を持ってくれない」

「気遣ってくれない」

「大事にしてくれない」

更に進むと、

「誰も私の事をわかってくれない!」という絶望的な思いも見え隠れする。

 

 

そもそも、子育ては共同作業。

なのに、頼めないのはなぜだろう?

伝えないのは何故だろう?

負担を減らし、楽しく生活するにはどうすればいいか?

建設的に話し合ってもいいのに。

何も言えない子どもじゃないのに・・

 

 

伝えることを邪魔するものって何?

 

 

どうせ言っても聞いてもらえないから?

怒って否定されて終わりだから?

苦手意識?罪悪感?

 

 

 

私がしてほしいことを伝えることなく、

黙っていたままで、

相手に全てを受け入れてほしいという思い。

特に親しい間柄で、強く現れてくること。

 

 

これは、

どこまでも深く愛情を求め続けている状態ともいえる。

 

 

悲しみ・絶望・放棄・虚しさ・孤独・憎悪

沢山の心の傷が疼く時でもある。

過去に繋がって、今でも起こっているもの。

 

 

あなたの内にあって、見え隠れする小さな者たち。

 

 

心理セラピーは、

かくれんぼのように、あなたの内に隠れた、

小さな子ども達を見つけていくことに似ている。

 

 

中には、鬼の声が届かない遠~い所に、隠れている子どもだっている。

見つからないように息をひそめて、じーっとしているそんな子には、

そ~っと、少しずつ、静かに、1歩ずつ近づく慎重さも必要になる。

見つけることから少し距離を置いて、その気配に気づくだけでいいこともある。

 

大切なのは、見離さないで置き去りにしないことなのだ。

 

 

隠れているのは一体どんな子?

見つけたその子に、ただ寄り添うことで一体、何が起こるだろう?

 

 

これまで生きてこられた、あなたが、あなたにいまできること。

そんな尊い体験をご一緒させていただけることを願っています。

 

 かくれんぼ

2019-09-20 12:03:00

映し出す者

相手を知りたいと思う時は、まだ知らない(気づいていない)

自分を知る予感かもしれない。

 

 

相手を通して自分を知る。

 

苦手な人も、憧れの人も・・・

 

 

相手に映し出しているものは、

自分が抑えている認めたくないものだったり、

反面、

また発揮できていない魅力だったりもする。

 

 

他者に興味を持つことは、

自分に興味を持つことでもある。

 

 

愛の反対は無関心だ。と、マザーテレサは言ったけれど、

自分に起こっていることに、無関心を装うのは悲しい事だと思う。

 

 

私が繋がっていくこと。

 

その道のりは、けして平坦なものではない。

進んだり戻ったりを繰り返しながら、

いつの間にか楽になっている自分に気づいていく。

 

 

人間関係で繰り返してしまう癖のようなもの。

それは、相手が変わっても、また必ず出てきてしまう。

 

 

運命の人を捜しあてたところで、結局は一緒なのだと思う。

 

繰り返されることは、実は自分が繰り返しているのだから。

 

 

「気づいてほしい」「わかってほしい」

 

言えなかったこと、伝えられなかったこと。

それを言ったところで、無理だと諦めてしまったこと。

 

 

その思いは、ずっとずっと、心の奥にしまいこまれたまま、

表に出てくるのを待っている。

 

 

あの時、

私は何を言いたかったのだろう?

何を望んでいたのだろう?

何をしたかったのだろう?

 

怒りや、悲しみを引き起こす、その奥にあったもの。

そこに興味を持っていくこと。

 

触れられる機会がなかった代わりに、

感情や感覚を飲み込み、切り離して、

適応する技ばかりが磨かれてきたけれど、

それは、消えることなく今も残り続けている。

 

 

私を思い出していくこと。

それは、あなたが本来持つ力を取り戻すことでもあり、

 

愛を思い起こす尊い体験となっていくだろう。

映し出す者

2019-05-23 17:47:00

誰が×つけてるの?

自分の感情や思いを、否定してしまうって何だろう?

×をつける、ダメだしをするって、自分へのいじめなのに・・・

わざわざ×をつけるって?

 

自分いじめは、こうでなきゃ!とか、こういうものだ!

という「正しさ」に反応している。

過去の辛い経験や、うすうす感じている自分の嫌な部分に反応しているようだ。

 

 

過去、自分に×(罰)を与えることで、誰かを守ってきた経験があったのかもしれない。

(結局、それは、自分を守るためにしてきたことなのだけれど)



気づきが深まってくると、

嫌な自分を感じることさえも許せない、自分がいることに気づくことがある。

このダブルいじめの罠にはまるのは、相当に辛い。

 

 

こんな自分だから愛されないのだ、だから上手くいかないのだ、等と思って、

今まで何とか治そうと、頑張ってきたこともあったかもしれない。

 

 

嫌な感情や記憶や感覚は、普段、見て見ぬふりされているようにできている。

(生きていくために、もともと備わった機能)

 

 

だから、気づきが進むということは、けして良い気持ちをもたらすだけではない。

 

今までの方法や思考にとどまることが、何より安心というのは当たり前のことなのだ。

 

 

でも、嫌な感情や思いや感覚が表れてきたとき、

それは、もっと私を見て!ってサインなのだと思う。

 

 

どういう時に、どんな感情が湧き、どのような価値観から、その感情が引き起こされるのか?

 

 

自分に起こることを、ほんの少しでも認めてやること。

認めるまでいかなくても、それと少し一緒にいることを試してみること。

 

 

意識は繋がっているから、嫌な部分に光が当たる(意識する)ことで、

一方通行だった流れが変化し、交流し始めることで循環していく。

 

 

気づきが進んで、交流ができると、繋がりは自然に起こってくる。

 

今まで、ばらばらだった気持が、交流することによって訪れる安堵感。

 

 

それは、あるがままの自分と共に在ることの一体感がもたらす、心の平和ともいえる。

誰が×つけてるの?

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2023.03.25 Saturday