相手を知りたいと思う時は、まだ知らない(気づいていない)
自分を知る予感かもしれない。
相手を通して自分を知る。
苦手な人も、憧れの人も・・・
相手に映し出しているものは、
自分が抑えている認めたくないものだったり、
反面、
また発揮できていない魅力だったりもする。
他者に興味を持つことは、
自分に興味を持つことでもある。
愛の反対は無関心だ。と、マザーテレサは言ったけれど、
自分に起こっていることに、無関心を装うのは悲しい事だと思う。
私が繋がっていくこと。
その道のりは、けして平坦なものではない。
進んだり戻ったりを繰り返しながら、
いつの間にか楽になっている自分に気づいていく。
人間関係で繰り返してしまう癖のようなもの。
それは、相手が変わっても、また必ず出てきてしまう。
運命の人を捜しあてたところで、結局は一緒なのだと思う。
繰り返されることは、実は自分が繰り返しているのだから。
「気づいてほしい」「わかってほしい」
言えなかったこと、伝えられなかったこと。
それを言ったところで、無理だと諦めてしまったこと。
その思いは、ずっとずっと、心の奥にしまいこまれたまま、
表に出てくるのを待っている。
あの時、
私は何を言いたかったのだろう?
何を望んでいたのだろう?
何をしたかったのだろう?
怒りや、悲しみを引き起こす、その奥にあったもの。
そこに興味を持っていくこと。
触れられる機会がなかった代わりに、
感情や感覚を飲み込み、切り離して、
適応する技ばかりが磨かれてきたけれど、
それは、消えることなく今も残り続けている。
私を思い出していくこと。
それは、あなたが本来持つ力を取り戻すことでもあり、
愛を思い起こす尊い体験となっていくだろう。
自分の感情や思いを、否定してしまうって何だろう?
×をつける、ダメだしをするって、自分へのいじめなのに・・・
わざわざ×をつけるって?
自分いじめは、こうでなきゃ!とか、こういうものだ!
という「正しさ」に反応している。
過去の辛い経験や、うすうす感じている自分の嫌な部分に反応しているようだ。
過去、自分に×(罰)を与えることで、誰かを守ってきた経験があったのかもしれない。
(結局、それは、自分を守るためにしてきたことなのだけれど)
気づきが深まってくると、
嫌な自分を感じることさえも許せない、自分がいることに気づくことがある。
このダブルいじめの罠にはまるのは、相当に辛い。
こんな自分だから愛されないのだ、だから上手くいかないのだ、等と思って、
今まで何とか治そうと、頑張ってきたこともあったかもしれない。
嫌な感情や記憶や感覚は、普段、見て見ぬふりされているようにできている。
(生きていくために、もともと備わった機能)
だから、気づきが進むということは、けして良い気持ちをもたらすだけではない。
今までの方法や思考にとどまることが、何より安心というのは当たり前のことなのだ。
でも、嫌な感情や思いや感覚が表れてきたとき、
それは、もっと私を見て!ってサインなのだと思う。
どういう時に、どんな感情が湧き、どのような価値観から、その感情が引き起こされるのか?
自分に起こることを、ほんの少しでも認めてやること。
認めるまでいかなくても、それと少し一緒にいることを試してみること。
意識は繋がっているから、嫌な部分に光が当たる(意識する)ことで、
一方通行だった流れが変化し、交流し始めることで循環していく。
気づきが進んで、交流ができると、繋がりは自然に起こってくる。
今まで、ばらばらだった気持が、交流することによって訪れる安堵感。
それは、あるがままの自分と共に在ることの一体感がもたらす、心の平和ともいえる。
思春期は、親や先生などを、お手本にしながら作ってきた自分と、お別れをして、
「理想」と「失望」に葛藤しながら、新な自分を確立してゆきます。
「本当の自分って??」「自分は何をやりたいのか?」を模索していく時期です。
また、自分が他人にどう見られているかを意識する時期でもあり、色んな葛藤の中で最終的に、
自分は、こういう人間なんだということがわかっていきます。(自分自身を客観的な目で見られるようになる。)
その過程を経て、他者とは違った自分、たった一人の自分を作ることで、
他者の価値観に揺るがされない自分を手に入れていくのです。
「自分探しの旅」とは、よく言われることですが、結局、生きていれば、いくつになっても、このテーマにぶつかります。
特に女性は、結婚、出産、仕事を続けるか?親の介護はどうするか?などの
選択肢が多くなります。
自由に選べる時代になったからこそ現れる問題ともいえるでしょう。
更に、中年の危機といわれる40代~50代は、身体的な変調をはじめ、
子どもの自立に伴った母親役割を失う喪失感、
夫婦の共通目標であった、子育てを終える事で訪れる、関係のありかた等、
社会的な役割を離れることで、個としての生き方を問われる時期でもあります。
ここで、今まで未解決だったあなたの課題が浮上してくることがあります。
私が私として生きていくために、思春期のように、自分探しをする時期がまた、やってくるのです。
今まで気づけなかった(気づく事をしなかった)あなた自身に出会うための旅のお誘いです。
旅を、始めるか始めないかは、自分次第。
自分で選んで決断できる、自らが望む人生を手に入れたいのなら、いくつになっても遅すぎるという事はありません。
私は、セラピーをとおして、あなたが自分のために生きていく、
お手伝いをさせていただけたら嬉しいです。
あなたは自分に優しくする方法を知っていますか?
どこかに出掛けたり?
美味しいものを食べたり?
ゆっくりと身体を休ませたり?
欲しいものを買ったり?
自然に触れたり?
人それぞれ思いつくことは違いますが、
自分が喜ぶことをしてあげよう!と思うのではないでしょうか。
自分が心地よいことを思いきりするのは大切なことです。
例え些細な事であっても自分が喜ぶ、ほっとするという事を、
普段から、沢山見つける事は自分探しのようで楽しいものです。
他にも、自分に優しくする方法があります。
もっと深く、自分に優しくできる方法ですよ。
それは、
自分の嫌な部分を見ないようにしない、押し込めないということです。
嫌だなと思う感情が現れてきたら、否定も肯定もせず、ただそれとともにいること。
自分勝手だって思っている自分がいるな~
他人のせいにしている自分がいるな~
ダメな人間だって思ってる自分がいるな~など
ただただ、今、自分におこっていることを、自分が気づいているだけの状態、
感情を眺めているというイメージです。
えっ!?
それって、全然、自分に優しくしていないんじゃない?
そう感じる方もいるでしょう。
でも、心の奥に普段は、しまわれている自分の怒りや、悲しみや、狡さや、弱さは、
生きるうえで必要な、大切な力であり、今まで自分を守ってくれていたものです。
それを認めてほしくて、いくら抑えこんでも、何かのきっかけで、
タイミングを見計らっていたかのように必ず、その部分は出てきます。
ずっと、長い間、あなたに気づいてほしかったこと。
まず、そこに居場所を与えてあげる事が必要です。
無視しないで、その感情をに関心を示してあげることです。
「どうしたの?」
「でてきたね~」
って、居場所をほんの少しでも与えてあげること。
すると、段々、落ち着いて静かになっている、自分に気づけるかもしれません。
それを続けると、心の奥の深い怒りや悲しみは段々と形を変えていきます。
普段の自分と混じりあって、今までとは違った味わいのある姿に変わっていきます。
人の言動に振り回されていると感じる方、
対人関係で、いつも出てくるパターンのようなものを感じている方。
「あの人はどうして私をわかってくれないのだろう?」
そう思う方はまず、自分の心に何が起こっているのか?興味を持ってみることです。
それができてくると、怒りや悲しみの感情に、振り回されることが少なくなり、
今までの人間関係に変化が起こってきます。
でも、これには練習が必要です。
今まで、良い自分にしか光を当ててもらえない日常を送ってきたのですから、無理もありません。
自分を変えようと努力するよりも、ありのままの自分で、い続けようとする事に勇気を持ち、
ゆっくりと時間をかける時、初めて人は変化するのです。
KIZASHIでは、ゆっくりと自分の身体の中におこる出来事に気づくことで、
あなたが、あなた自身を頼りにできるようになれるよう、お手伝いをさせていただきます。
感受性が強い人って、どんな人だと思いますか?
人情に厚く、あたたかい心をもつ人?
人の些細な変化に気がつくことができ、心配りができる人?
今流にいえば「空気をよみやすい人」と表現できるのかもしれません。
私の周りにも、沢山の感受性豊かな方がいます。
いずれも、私にとって安心できる仲間たちです。
感受性の強い方は、ものごとの細かい部分まで感じとれるので、対人面において、
気疲れしたり、傷つきやすいといった、敏感さを持ち合わせている人ともいえるでしょう。
他者に対するアンテナが高すぎるために、感情移入しやすく、相手の問題を自分の事のように感じすぎたり、
相手を優先してばかりで、自分を大事にできなかった経験もあるかもしれません。
でも、あなたの持つその特性は宝物でもあるのです。
小さなことで傷つくその心は、どんな些細なものにでも感動出来る純粋さも持ち合わせています。
それは、どんな時でも、どこにいても自分の心を豊かにすることができる力です。
また、あなたの高い共感力は、周囲の人に幸せな気持ちをもたらすでしょう。
では、感受性の豊かさという宝物を活かしていくためには、どうしたらよいのでしょうか?
それは、
「相手に感じる感情を、自分に戻す」事です。
例えば
「この人怒ってる?」「迷惑なのかな?」と感じた時、
そっくりそのまま、
「私は今、この人が怒っているのかな~?って感じてるな」
「私は今、この人が迷惑じゃないのかな?って感じてるな」と
今、自分が感じている事を眺めてみればいいのです。
そうすることで、自分の感情と他者の感情をわけることができます。
相手が、どう感じているか結局は、相手しかわからない、あくまでも自分の推測でしかないのです。
投影とも言われる、自分の心を映し出すことによって感じるものでもありますが、
感受性の高さが引き起こすことと言えるかもしれません。
まずは
「自分の思いと相手の思いに線を引くこと」が大切です。
自分が、ただそう感じているのだな、ということです。
その思いに良い悪いもなく、ただそう感じているのだね、と自分の思いを、その場に置いておくのです。
ここで注意したいのは、例えば
「この人怒ってる?」って感じている時、
「また、こんなこと気にしてる・・私ってダメだな」等と押し込まないこと。
あくまでも今、私が感じていることは、良いも悪いもないのです。
そこに、解釈や判断をいれるから苦しくなるのです。
ただただ、自分に起こる感情や記憶や感覚と共にいる練習をします。
これは、マインドフルネス瞑想や、気づきの練習によって、
自分と他者との間に起ることを、区別できるようになることで、楽になっていきます。
さらに、ありのままの自分を感じられる強さと、心地よさが手に入り、
無駄な苦しみが少なくなり、いざ!という時に、本来の力を発揮できるようになっていくでしょう。