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2024-12-06 11:11:00

長夜

映画や、ドラマや小説。

時間を空け見返してみると、以前とは違う思いや感じを持つ。

当時は、気にも留めなかったこと、よくわからなかったこと、感想の違い。

色々な視点で、登場人物それぞれの魅力を感じたり、新たな疑問や発見がある。

 

 

例えば、一見、他者との深い関係を切に望んでいるようにみえて、実は、相手を受け入れることができないキャラクター。

彼女は、受け入れてしまうと厄介になるって、どこかで感じている。

それは、怖さや煩わしさや面倒くささや落胆のようなもの。

親密さを求めながらも、距離が縮まると起こる、落ち着かない感じや窮屈さ。

一緒に居ることを望みながら、避けたい・・・が同時に起こっている感じ。

 

 

そして、次第に彼女は、関係性において起こる自分の内にあるものに気づく。

相手に、嫌われぬよう穏便に済ませようという思いからNOがいえないこと、

拒否されたり無視されたり攻撃される怖さから、自分のしてほしいことを伝えることができなかったり。

そもそも、自分の要求が何であるのかも分からなかったり。

あなたはOKだけど私はNOな感じ・・

 

また、相手の欠点や不甲斐なさに不満を持っていたと思っていたのに、

実は、自分が相手を見くびることで自尊心を保っていたことに気づいたり。

相手の問題を自分の問題と混同し、相手を力のないものとすることで、自分の力や価値を見出したり。

私はOKだけど、あなたはNOという気持ち・・・

 

 

自分の感じていることをわかってくれて、共感してくれて、受容してくれて理解し合える。

そんな深い関係を求めているのに、どうして関係を築けないのだろう・・・と思ってきた。

気に入られようと自分をOPENにして相手に近づき、相手が開いてくれないと感じると急に関係を中断してしまうのに。

 

彼女は、誰かを求めながら、本当は、閉じたい、closedしたい。

休憩中!休業中!終了!って看板を立てたい、

他者と無理に関わらず、繭に包まれた安全なシェルターで過ごしたい感じがあることに気づいていく。

 

 

それは、他者と自分の境界や結界を意識できること。

心臓の部屋を仕切る弁のように、しっかり閉じる。

閉鎖不全になって、部屋と部屋(相手と自分)が逆流しないように。

守られた安全な空間を確保して、エネルギーを貯め、全身に血液を送り続けていく。

死ぬまで生きていくために。

 

 

そんな安全な部屋では、外界のわずかな音や声、人の気配や空気の流れ、自分の体温や鼓動を感じている。

ひとりでいながらも、誰か何かの存在を感じながら心地よい感覚を掴んでいく。

そんな時の身体は、どうなっている?

緊張が緩み、無駄な力が抜け、地に支えられているような無理のない感じ。

呼吸はどうだろう。表情や手や足の感覚は?

そんな自分の体の感じを掴みながら、他者との距離が近づくことで起こる変化を、行ったり来たりしながら、

安心な他者との距離を体感する経験。

 

 

それは、そのままの自分でいながら、少しだけ誰かと居てみる体験でもある。

皆と同じことをする必要はなく、誰かの期待に応えようとしなくてもいい。

変えることなく、治すこともないまま、いつの間にか変わっていることに気づく。

それは、安全な子宮の中で育ちながら、冒険に満ちたこの世に生まれ出る時が来るように、自然とやってくるのだ。

 

 

ああ、私の心地よい関係は、相手が空間を与えてくれて一緒にいてくれることだった、と気づく瞬間。

 

自分を避けることなく、共に居ることができるようになると、

何を受け入れ、何を受け入れないかを、自ら決めていけるようになる。

それは、新たな他者との始まりでもある。

 

関係性の形は、人それぞれ。

 

あなたが気になる物語はあるでしょうか?

 

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2023-01-04 13:48:00

約束のない幸せ

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予定のない幸せ

 

時間を気にしない幸せ

 

 

何をしようか考えないって・・・幸せ

2022-06-03 14:44:00

万事快調

してみたいけれど諦めていること。

頭でシュミレーション。

ああなって、こうなって、だからこうして、ああしての事前準備。

そうこうしてるうちに、ああ面倒くさい、もういい!!どうせ無理だし・・ってなることもあるでしょう。

 

でも、実際やってみると、案外、何でもなかったりして、考えすぎてたことに気づいたりします。

 

考える、というのは、失敗のないように、安全に、無理のないように、一生懸命に色々と頭は考えてくれる訳だけれど、

そこには、過去に失敗や嫌な経験があって、また、そうならないように必死になってたりする。

生き残るために、身についた方法の1つみたいなもの。

それは、もちろんあっていいけれど、苦しさがあるのなら、やってみてほしいことがあります。

 

 

いま、自分に不安が起こっているのだね、とそれを観察してみる。

まるで、不思議な物体を観察するように、ジッと、その様子を見る。

フーン・・こういう時にこういう思いや考えが起こるのか・・ってな感じに。

 

他者からの評価や、他者との比較、自分の混乱や、焦りや、色んなものがそこには混じっています。

まずは、自分で自分を評価していることに気づけるのなら、その先に道は開がるでしょう。

 

 

誰かのせい、自分のせい、から離れて、

今ここで、あなたを、あるがままに体験していく過程で起こること。

 

どんなあなたでも、どんな私でも、万事快調で。

 

 

 

 万事快調

 

 

 

 

 

2022-01-26 12:30:00

日常の中の非日常

誰だったか・・・先生が言っていた。

保健室は生徒の駆け込み寺だねって。

 

保健室は、体の不調やケガで来室するところ。

私が学生だった頃は、多分そんな感じだったと思う。

実際、私が保健室を利用したことは、ほとんどなかったのではないか、と思う。

 

しかし、実際に保健室の主として存在するようになった私は、

沢山の子ども達が次々と訪れることに驚いてしまった。

生徒数が多かったのも確かだが、それにしても・・・・

 

現代は、持病を抱える子どもが増えていることもあるが、

それとは別に、慢性的に体調不良を訴える子ども達の多いこと!

 

 

保健室に訪れるそんな生徒たちを、まずは問診して検温する。

とりあえず1コマお休みさせて、改善しないならば家庭に戻す、が保健室の原則。

勿論、それ以前に有熱者や診察が必要と判断した場合は早退させる。

 

しかし・・・

熱発もなく、問診や視診では、特に問題のなさそうな子ども達。

俗に言われる不定愁訴と思しきものも多い。

 

友人間のトラブル、先生からの叱責などで、泣きながら訪れる子ども、先生に付き添われてくる子ども。

保健室は、とりあえずの避難場所としての役割もあるのだ。

集会場所や教室で倒れたり、過呼吸を起こせば、緊急要請!

車いすや担架でお迎えに行くこともしばしばあった。

いつどこで誰に何が起こるかわからないのは、病院と一緒だ。

不測の事態に備えて、こちらは準備が必要となる。

 

疾風怒涛の思春期。

体の変化のスピードに心はついてゆけず、

他者や親、自分との狭間で、イライラや落ち込み、訳の分からないモヤモヤ・・

何が何だかちっとも訳わからない!そんな状態の真っただ中にあるのだろう。

 

心と体の繋がりから言えば、

体の調子を聞くことは、心の様子を直接聞くことと違って生徒も答えやすい。

大体、心に目を向けることができないのが当たり前。

心の様子が自分でわかっていたら、体の調子が悪くなることはないだろう。

 

自傷であろうが、負傷であろうが処置は一緒だ。

痛そうだね。

大丈夫?

*****はい、これで大丈夫だよ。

そんな何気ない、やり取りの繰り返しが大切だと思う。

「こころの問題」という括りから一旦距離を取り、

 純粋に、いま目の前にいるこの子に何が起こっているのだろう?と関心を向けられる余裕が必要と感じる。

 

子ども達が、自分の身体に関心を持てるようになること。

体はいま、何を伝えようとしているのか?

好奇心を持って、体とやり取りができる練習が、これからは必要だろう。。

誰もが、皆、この身体を生きていくのだからね。

 

 

学校は社会の縮図と言われるけれど、

外からは見えない、密室化した家庭で起こっていること。

その現実に、衝撃と苦しみを感じたことも沢山あった。

家庭でもリラックスできない状況にある子どもが沢山いる。

特別な家庭?でなくてもだ。

 

自分の身体に緊張があることに気づける場所。

いつの間にか気づけば、ふっと力が抜けている、そんな場所を私は作りたかった。

 

それぞれが尊重される場所。評価されることのない場所。

ここでは、愚痴を言ったって、泣いたって、怒ったって、寝ていたって、ぼーっとしていたっていい。

学校の中にある、ちょと寄ってみようかな、というそんな場所。

人がひしめく教室の圧迫感から離れて、一人静かになれる場所。

直接、誰かと繋がらなくても構わない場所。

誰かの存在によって安心していられる場所。

他者の話を聞きながら、悩みや困難を抱えるのは私だけでない、と知る場所。

 

居心地の良さに長居しがちな子ども達もいる。

そんな時、声をかけ様子を聞く先生、一喝して授業に連れ戻す先生、見て見ぬふりする先生、

笑いをとってその場を和ませようとする先生、腰を据えてじっくりと話を聞こうとする先生、タイプは様々だ。

それもそれでいい。

生徒にとっては、人間色々いて、思うようにならない、都合の良いことばかりでないことを体験するのも大切だから。

 

 

養護教諭も自分の力の抜きどころがわかるには経験が必要だろう。

学校のチームの一員として、連携しながら交流しながら、

先生達に理解を求めながら、時にぶつかりながら、外部との繋がりを持ちながら、

人と人、人と社会的な資源を繋ぐ、というコーディネーターの役割も求められる。

 

人を育てること。それは自分を知り、自分を育てていくことでもある。

教えているようで教えられ、助けているようで助けられている。

一方通行でない相互の関係によって日々、生まれているもの。

 

保健室から教室に戻る生徒の背中を見送りながら、

私は「行ってらっしゃい!」と声をかける。

自分の子どもには、なかなかできなかったことでもあるが、

きっとうちの子ども達も、どこかで誰かに見守られているのだろう、と思いながら。

 

 日常の中の非日常

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020-07-26 12:57:00

私は、邦画を好んで見る。

 


思いもよらぬ展開や、ハラハラドキドキ、

といったものも楽しいけれど、

最近は、

音楽で言ったらクレシェンドのように、

 

ゆっくり、ゆったりと盛り上がり、

次第に静けさが戻ってくるようなものが好き。

 

物語の「やま」は、けして派手とは言えないけれど、

その分、奥底まで深く振動するような感覚がある。

 

 

会話が途切れて、動きのない画面。

 

その間(ま)と、

一緒にいることで起こってくる、ワクワク感がいい。

 

 

 

静寂 無音 空間 に気づくと、

聴覚、触覚、嗅覚が敏感になるようだ。

 

 

間と間

 


慣れ親しんだ、沢山の情報、刺激から離れて、

静けさの中に溶け込むことで起こること。

 

 

静けさは怖さでもあり、

興奮でもあるようだ。

 

 

間

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