誰だったか・・・先生が言っていた。
保健室は生徒の駆け込み寺だねって。
保健室は、体の不調やケガで来室するところ。
私が学生だった頃は、多分そんな感じだったと思う。
実際、私が保健室を利用したことは、ほとんどなかったのではないか、と思う。
しかし、実際に保健室の主として存在するようになった私は、
沢山の子ども達が次々と訪れることに驚いてしまった。
生徒数が多かったのも確かだが、それにしても・・・・
現代は、持病を抱える子どもが増えていることもあるが、
それとは別に、慢性的に体調不良を訴える子ども達の多いこと!
保健室に訪れるそんな生徒たちを、まずは問診して検温する。
とりあえず1コマお休みさせて、改善しないならば家庭に戻す、が保健室の原則。
勿論、それ以前に有熱者や診察が必要と判断した場合は早退させる。
しかし・・・
熱発もなく、問診や視診では、特に問題のなさそうな子ども達。
俗に言われる不定愁訴と思しきものも多い。
友人間のトラブル、先生からの叱責などで、泣きながら訪れる子ども、先生に付き添われてくる子ども。
保健室は、とりあえずの避難場所としての役割もあるのだ。
集会場所や教室で倒れたり、過呼吸を起こせば、緊急要請!
車いすや担架でお迎えに行くこともしばしばあった。
いつどこで誰に何が起こるかわからないのは、病院と一緒だ。
不測の事態に備えて、こちらは準備が必要となる。
疾風怒涛の思春期。
体の変化のスピードに心はついてゆけず、
他者や親、自分との狭間で、イライラや落ち込み、訳の分からないモヤモヤ・・
何が何だかちっとも訳わからない!そんな状態の真っただ中にあるのだろう。
心と体の繋がりから言えば、
体の調子を聞くことは、心の様子を直接聞くことと違って生徒も答えやすい。
大体、心に目を向けることができないのが当たり前。
心の様子が自分でわかっていたら、体の調子が悪くなることはないだろう。
自傷であろうが、負傷であろうが処置は一緒だ。
痛そうだね。
大丈夫?
*****はい、これで大丈夫だよ。
そんな何気ない、やり取りの繰り返しが大切だと思う。
「こころの問題」という括りから一旦距離を取り、
純粋に、いま目の前にいるこの子に何が起こっているのだろう?と関心を向けられる余裕が必要と感じる。
子ども達が、自分の身体に関心を持てるようになること。
体はいま、何を伝えようとしているのか?
好奇心を持って、体とやり取りができる練習が、これからは必要だろう。。
誰もが、皆、この身体を生きていくのだからね。
学校は社会の縮図と言われるけれど、
外からは見えない、密室化した家庭で起こっていること。
その現実に、衝撃と苦しみを感じたことも沢山あった。
家庭でもリラックスできない状況にある子どもが沢山いる。
特別な家庭?でなくてもだ。
自分の身体に緊張があることに気づける場所。
いつの間にか気づけば、ふっと力が抜けている、そんな場所を私は作りたかった。
それぞれが尊重される場所。評価されることのない場所。
ここでは、愚痴を言ったって、泣いたって、怒ったって、寝ていたって、ぼーっとしていたっていい。
学校の中にある、ちょと寄ってみようかな、というそんな場所。
人がひしめく教室の圧迫感から離れて、一人静かになれる場所。
直接、誰かと繋がらなくても構わない場所。
誰かの存在によって安心していられる場所。
他者の話を聞きながら、悩みや困難を抱えるのは私だけでない、と知る場所。
居心地の良さに長居しがちな子ども達もいる。
そんな時、声をかけ様子を聞く先生、一喝して授業に連れ戻す先生、見て見ぬふりする先生、
笑いをとってその場を和ませようとする先生、腰を据えてじっくりと話を聞こうとする先生、タイプは様々だ。
それもそれでいい。
生徒にとっては、人間色々いて、思うようにならない、都合の良いことばかりでないことを体験するのも大切だから。
養護教諭も自分の力の抜きどころがわかるには経験が必要だろう。
学校のチームの一員として、連携しながら交流しながら、
先生達に理解を求めながら、時にぶつかりながら、外部との繋がりを持ちながら、
人と人、人と社会的な資源を繋ぐ、というコーディネーターの役割も求められる。
人を育てること。それは自分を知り、自分を育てていくことでもある。
教えているようで教えられ、助けているようで助けられている。
一方通行でない相互の関係によって日々、生まれているもの。
保健室から教室に戻る生徒の背中を見送りながら、
私は「行ってらっしゃい!」と声をかける。
自分の子どもには、なかなかできなかったことでもあるが、
きっとうちの子ども達も、どこかで誰かに見守られているのだろう、と思いながら。