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2019-07-27 16:18:00

記憶

最近、

子どものころに読んでいた本の題名が、ふと浮かんだ。

 

1つ浮かぶと数冊、何となく題名を思い出し、無性に読みたくなった。

 

 

こんな時、現代は便利。

キーワードを入れて検索してみる。

 

すると・・・・・

 

あったあった!!

これこれ!!!!

 

早速、図書館で検索してみる。

 

読みたかった本は全てあって、予約もできた。

 

 

実際に本を、手に取ってみると、

長い歳月によって、痛みがかなり進んでいるものもあった。

 

 

変色し、ボロボロになったページを慎重にめくる。

数十年の時を経て、今ここで再会できたことに、

ひときわ嬉しさが増してくる。

 

 

 

初版発行年月日を見ると、不思議なことに大体、同じ頃だった。

その頃は、よく本を読んでいたことを思い出した。

 

 

本の内容は様々だけれど、いずれも、

学校や家庭を舞台に、ちょっとした事件をもとに、

登場人物である、友人、家族、先生、大人達との

人間関係を通して、主人公が変化し成長していくものだった。

 

 

大人にとっては、日常の些細な出来事。どこにでもありそうな。

でも、子どもにとっては、それが大事件であり、謎でもあり・・・

 

 

子どもの視点、子どもの世界にいながらも、

家庭と社会

私と他者

繰り広げられる当たり前の日常の中で、子どもながらに感じる迷いや葛藤。

そこを経て、成長していく姿に勇気をもらっていたのかもしれない。

 

 

 

本の中の子ども達は、当時の私に何を語りかけていたのだろう?

 

 

年季の入った古い本から、今、感じるもの。

あの頃の私。

 

 

子どもの私に帰ってみる。

あの頃、見ていたこと感じていたこと。

記憶を辿ってみる。

 

 

そこには、大人になってからは、感じることが鈍くなってしまった、

不思議なものに触れたくなる、好奇心や冒険心があった。

 

 

時間がたつのを忘れ、日が暮れるまで夢中になって遊んでいた、あの頃。

 

 

家に帰りたくなかった日、

そして、

お迎えが待ち遠しかった日。

 

 

 

全ては、もう思い出すことができないけれど、

大人になって随分経つ、今の私が、

読みかえす本から感じた、あの頃の私。

 

それは、愛おしさのようなもの。

 

思わず、声をかけたくなった。

 

 

大丈夫だよ。

あなたは、そのままでいいよ。

心配いらないからね。

 

 

子どもの私が、しっかり私を見て、頷いた気がした。

記憶

 

 

 

2019-07-15 17:42:00

動くって楽しい

暑い 熱い~

 

最近の身に起こる体調の変化を、この時期の理由にすることもあるけれど、

 

 

身体が重い~~

だるい~眠い・・

 

 

それを感じつつも、これが聞こえてくると、自然に身体が動きだす。

 

 

上手い下手とか全然関係ない!

ただ、ただ踊る。

「身体を動かす」というより「身体が自然に動きだす」感じ。

それがまた楽しい↑↑

 

 

手、足、腰、肩、首、腕、指先、

感覚に身を任せて、身体の動きを楽しむ。

伸ばして、曲げて、回って、飛んで・・・

 

筋肉だけじゃなく、関節だって使ってるのがわかる。

とにかく全身を使って、全身で表現してみる。

 

 

心が柔軟になると、身体も自然に滑らかになるみたい。

 

 

凄いな~~~

ダンスって。

 

 

「しなやかに」とは、全然言えない。

首だって回らないし、手も回せないよ~~泣

 

でも、それを楽しむ感じがまた楽しいのです。笑

 

 

私が素晴らしいなと感じるのは、1曲の中に、

動と静

攻める、受ける

強さ、しなやかさ

等、

まるで、女性性と男性性を、

全身を使って表現しているかのように感じるから。

 

相反するものが見事に表現されている、

その艶やかさに、魅力を感じているのかな?

 

 

ダンスは自己表現と言われるけれど、

自分の中にあるものを、身体を使って外に表現すること。

 

そして、

音との切っても切れない関係性。

 

 

私は、

そこに音楽があるから身体が動く、

ということに慣れているけれど、

身体の動きに伴って、心が開放されていく感じは、誰もが持っているのかもしれない。

 

それは、はるか昔、

ダンスは、神への祈りでもあったといわれることに、何か繋がりがあるのかもしれないな。

 

 

 

動くって楽しい

2019-07-10 16:04:00

運命よりも

人生は選択の連続だ。

 

進学、就職、転職、恋愛、結婚、出産、介護、治療、老後・・・

 

生きている限り、選択は続いていく。

 

 

今までを振り返って、

あの時こうしていたら・・・と、悔やんだり、

ないものにしたい、っていう過去もあるかもしれない。

 

 

でも、実は全てそれらは、自分が選んできたということだとしたら・・

 

 

誰かのせい、環境のせい、にしたままでいれば、変わることはないもの。

今の、そのまま、そのようにして生きていくことは、予想がつく。

 

 

でも、それはそれでいいのだと思う。

自らが選んでいる、ことに気づくのなら、

それは、自分を生きているということだから。



「選択すること」

そこには、自由があり、そして責任が生まれる。

 

 

自分の中の違和感や、湧いてくる何かに突き動かされて、

その時はやってくる。

 

 

日常の出来事の中、

苦痛や、不安や、痛み

けして良い状態でない状況や、状態からやってくるのだろう。

 

 

それを、どう捉えるか??

 

良いか悪いか?

正しいか?間違っているか?

 

 

世間で言われることを、そのまま受け止め、評価し始めている自分に気づくこと。

 

 

他者や、世間に翻弄されながら、自分を見失いそうになりながら、

違和感を持つ自分に気づくとき。

 

 

その時こそが、自分に出会っていく、きっかけになるだろう。

 

 

変身する?しない?

 

どちらもOKだし、

変身の度合いも、人それぞれ。

 

 

そんな変化を

 

楽しんで、面白がって、信じて生きてみたいと思う

運命よりも

2019-06-05 17:47:00

わがままに生きる

自分が感じるまま、自分がしたいように行動するのに、抵抗を覚える人は多い。(私もその1人だったけれど)

 

こんなことするなんて、自分のわがままではないか?

今まで手にしてきたものが、失われてしまうのではないか?

世間一般から外れてしまうのではないか?など

何が正しいか?と考える時点で、自分を守ろうとする反応が起きているのだろう。

 

それは、生きるうえで大切な事でもあり、当たり前の感情でもある。

 

でも、自分の外に原因や責任を求めても、苦しみは終わらない事に気づけたなら、

証拠や基準を、外に求めることを止めてみるといい。

 

人は、本当の自分の欲求を知り、自分を信頼することを怖がるけれど、

答えは自分の中にあって、何より、それが一番正しいということを、本当は知っているのだとも思う。

 

それに気づいていくには、嫌な部分を、わかったふりをして、ないものにしたり、

いけない事だと閉じ込めたりしないこと。

 

嫌な自分を排除することに必死にならないで、とりあえず、その場に置いておけるスペースを作ること。

それは、息を吐ききる事に集中すると、次は、意識しなくても自然に息をしていることに似ている。

 

すると、案外、怖い事でもなく、敵と思っていたそれは、

本来の自分に気づかせるための扉であることに気づくかもしれない。

 

 

目には見えず、根拠もない未知なものに進む生き方は、綱渡りのような危険と勇気を必要とする。

でも、先行きの見えない時代を生きている私達には、安全や安心が保障されているわけでもない。

ましてや、明日も同じように生きれるとは限らない。

 

 

全ては今、ここに。

自分に起こることに興味や関心を持って佇むこと。

 

その過程を、孤独な作業にする必要はない。

あなたの思いや感情を加工することを求められる場ではなく、

そのまま、ありのまま、あなたでいることを許される場や人との中で、新たに生まれてくるのだと感じる。

 

自分の、わがままを、正直に認めることができると、

 

人は皆、わがままなのだな~と、何だか優しい気持ちになれたりする。

わがままに生きる

2019-05-24 16:58:00

看取り

高齢化が進み、人生の最終段階での医療の在り方は、大きく変わった。

 

尊厳死が言われるようになり、延命処置を行わないことで、

安らかに、自然な死を迎える選択を与えられる機会は増えている。

 

日本では、病院で最期を迎える方が大半だったが、超高齢化社会を迎え、今後、病院や老人ホーム等の不足が予想されており、

在宅での看取りのニーズが高まることは必然といわれる。

 

死は、確実に誰にも平等に、やってくることを考えると、

自分が将来、どのような最期を迎えたいか?を考えておくことは大切なことだと思う。

 

しかし、個人的に考える機会はあっても、それを近親者で共有する機会は少ない。

死について、話し合うことを避けてしまうのは、残されるものに働く心理か?

 

 

どのような最期を迎えたいか?

いかに本人の価値観を尊重するか?

前もって、近親者と共有することは辛いことかもしれない。

馬鹿げたことだ、と取り合わないでいたい気持ちもあるかもしれない。

死ぬなんて・・・そんな不吉なこと・・

 

 

現代では、認知症の問題もあり、自分の最期をどのようにするか?は、家族に求められるという現実もある。

 

 

最近は、老人施設で「看取り」を掲げる所が増えているが、

実際に、利用者の状態に合わせて、自然に死を迎える体制が整っている所はまだまだ少ないと感じる。

 

 

入所した時と違って、その人の状態は、刻一刻と変化していくものだからだ。

だからこそ、医療、介護スタッフ・家族とコミュニケーションをとり、情報交換やプランの見直しが大切になってくる。

 

 

衰弱する、という事は、

 

食事が摂れなくなる。

水分が取れなくなる。

尿が出なくなる。

色々あるけれど・・・・

 

 

人は、衰弱していく人を見た時に、

無意識に、何かをしなくてはいけない、と思うのではないだろうか?

 

「何かをすること」に慣れている状態ともいえる。

自然に息を引き取る場に慣れていないのだ。

 

 

呼吸が、ゆっくり止まり、やがて心臓が止まる。

 

その最後に至るまで、見送る私達の価値観が影響してしまうのではないか、と感じる。

 

 

ただ死を待つことは、周囲のものにとって、不安や焦りや、恐ろしさを感じることでもあるだろう。

 

死を受け入れる、ということは、看取るものに動揺を与える。

 

 

自然に命の終わりが近づく時、

限りある生の時間を、死にゆく人と共に過ごす時。

 

何かをしなければいけない、という焦りや不安や恐怖にまず気づくこと、

死に行く者、生きる者、死と生、分けようとしている自分に気づくこと。

そして、ただ今この一時に、共に存ること。

今ここに存在する者同士の場によって現れることは何であるのか?

 

それは、忘れがちな自分の死を意識して生きること、によって得られるもの、そんな予感がある。

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