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こそだて
こそだては、子どもを通して自分を知る機会でもある。
知るとは、自分に起こる感情や思いや記憶に気づいていくこと。
子どもなのだから、自分の思う通りにならないことは十分わかっているはずなのに、
それでも、どうしてこの子はこうなんだろう?と、異質なものを見るような違和感や不快感から、
子どもにやさしくできない、イライラして怒りが止まらないなど、
子どもに、適切な関りが出来ないと感じて苦しむお母さんは案外、多いのではないだろうか。
子どもといて、どんな時に、どんな思いや気持ち、感情が湧いてくるのか?
それは、自分の内にある、違和感、苦しさ、怒り、悲しみだったり、
それをジャッジすることで生まれる罪悪感、自責感だったりする。
こそだては、あなたの内に、ずっとあった未解決な課題に触れる機会ともいえるだろう。
例え過去であっても、今も身体に残されている未完了の体験たち。
自分を知るには、映し返すものが必要となる。
人が変化していくには、他者が必要なのだ。
私と子ども。
最も近い存在だけれど、私ではない者。
違うからこそ、理解したいと思う者。
相手を変えることなく、自分も刻まないで・・・
近ければ近いほど生まれてくる違和感。
それを丁寧に観ていく場によって、次第に関係は変化していくだろう。
記憶
最近、
子どものころに読んでいた本の題名が、ふと浮かんだ。
1つ浮かぶと数冊、何となく題名を思い出し、無性に読みたくなった。
こんな時、現代は便利。
キーワードを入れて検索してみる。
すると・・・・・
あったあった!!
これこれ!!!!
早速、図書館で検索してみる。
読みたかった本は全てあって、予約もできた。
実際に本を、手に取ってみると、
長い歳月によって、痛みがかなり進んでいるものもあった。
変色し、ボロボロになったページを慎重にめくる。
数十年の時を経て、今ここで再会できたことに、
ひときわ嬉しさが増してくる。
初版発行年月日を見ると、不思議なことに大体、同じ頃だった。
その頃は、よく本を読んでいたことを思い出した。
本の内容は様々だけれど、いずれも、
学校や家庭を舞台に、ちょっとした事件をもとに、
登場人物である、友人、家族、先生、大人達との
人間関係を通して、主人公が変化し成長していくものだった。
大人にとっては、日常の些細な出来事。どこにでもありそうな。
でも、子どもにとっては、それが大事件であり、謎でもあり・・・
子どもの視点、子どもの世界にいながらも、
家庭と社会
私と他者
繰り広げられる当たり前の日常の中で、子どもながらに感じる迷いや葛藤。
そこを経て、成長していく姿に勇気をもらっていたのかもしれない。
本の中の子ども達は、当時の私に何を語りかけていたのだろう?
年季の入った古い本から、今、感じるもの。
あの頃の私。
子どもの私に帰ってみる。
あの頃、見ていたこと感じていたこと。
記憶を辿ってみる。
そこには、大人になってからは、感じることが鈍くなってしまった、
不思議なものに触れたくなる、好奇心や冒険心があった。
時間がたつのを忘れ、日が暮れるまで夢中になって遊んでいた、あの頃。
家に帰りたくなかった日、
そして、
お迎えが待ち遠しかった日。
全ては、もう思い出すことができないけれど、
大人になって随分経つ、今の私が、
読みかえす本から感じた、あの頃の私。
それは、愛おしさのようなもの。
思わず、声をかけたくなった。
大丈夫だよ。
あなたは、そのままでいいよ。
心配いらないからね。
子どもの私が、しっかり私を見て、頷いた気がした。
香りの処方箋
香りを感じる嗅覚は、脳の原始的な部位といわれる大脳辺縁系と関係しています。
ここは、食欲や性欲や意欲などの本能や、喜怒哀楽の感情を司る役割を持っています。
過去に、ある匂いを嗅いだ時に心地よさを感じ、それが記憶されると、
それは、後に快をもたらす香りとなるようです。
例えば、子どもの時に、大好きだった祖母の家に行った時の、畳の匂いや、
お線香の香りが記憶に残っていると、その香りで祖母を思い出し、安心感や心地よさに繋がるようです。
自分の過去の経験を元にして、潜在意識が快、不快を判断するのですね。
嗅覚は、本能で好き嫌いを振り分けるので、
腐っているものを判断するなど、危険から身を守るためにも働きます。
しかし、年齢とともに、嗅覚は衰えていくようです。
嗅覚を意識的に鍛える方法としては、日常生活での匂いを意識すること。
飲んだり、食べたりする際に匂いを嗅いでみる。
コーヒーや紅茶等のように、匂いを嗅いで、香から楽しむ感覚ですね。
更に、シャンプーや香水、石鹸、花や、フルーツなど、
普段から自分の周りにある、刺激の少ない、好きな香りを1日に数種類を数回嗅ぐことで、
嗅覚が発達して脳への刺激にも役立つそうです。
まさしく香りと記憶を関連づける方法ですね。
人によって、心地よいと感じる香りは様々ですが、今の自分の身体が欲している香りといえるかもしれません。
看取り
高齢化が進み、人生の最終段階での医療の在り方は、大きく変わった。
尊厳死が言われるようになり、延命処置を行わないことで、
安らかに、自然な死を迎える選択を与えられる機会は増えている。
日本では、病院で最期を迎える方が大半だったが、超高齢化社会を迎え、今後、病院や老人ホーム等の不足が予想されており、
在宅での看取りのニーズが高まることは必然といわれる。
死は、確実に誰にも平等に、やってくることを考えると、
自分が将来、どのような最期を迎えたいか?を考えておくことは大切なことだと思う。
しかし、個人的に考える機会はあっても、それを近親者で共有する機会は少ない。
死について、話し合うことを避けてしまうのは、残されるものに働く心理か?
どのような最期を迎えたいか?
いかに本人の価値観を尊重するか?
前もって、近親者と共有することは辛いことかもしれない。
馬鹿げたことだ、と取り合わないでいたい気持ちもあるかもしれない。
死ぬなんて・・・そんな不吉なこと・・
現代では、認知症の問題もあり、自分の最期をどのようにするか?は、家族に求められるという現実もある。
最近は、老人施設で「看取り」を掲げる所が増えているが、
実際に、利用者の状態に合わせて、自然に死を迎える体制が整っている所はまだまだ少ないと感じる。
入所した時と違って、その人の状態は、刻一刻と変化していくものだからだ。
だからこそ、医療、介護スタッフ・家族とコミュニケーションをとり、情報交換やプランの見直しが大切になってくる。
衰弱する、という事は、
食事が摂れなくなる。
水分が取れなくなる。
尿が出なくなる。
色々あるけれど・・・・
人は、衰弱していく人を見た時に、
無意識に、何かをしなくてはいけない、と思うのではないだろうか?
「何かをすること」に慣れている状態ともいえる。
自然に息を引き取る場に慣れていないのだ。
呼吸が、ゆっくり止まり、やがて心臓が止まる。
その最後に至るまで、見送る私達の価値観が影響してしまうのではないか、と感じる。
ただ死を待つことは、周囲のものにとって、不安や焦りや、恐ろしさを感じることでもあるだろう。
死を受け入れる、ということは、看取るものに動揺を与える。
自然に命の終わりが近づく時、
限りある生の時間を、死にゆく人と共に過ごす時。
何かをしなければいけない、という焦りや不安や恐怖にまず気づくこと、
死に行く者、生きる者、死と生、分けようとしている自分に気づくこと。
そして、ただ今この一時に、共に存ること。
今ここに存在する者同士の場によって現れることは何であるのか?
それは、忘れがちな自分の死を意識して生きること、によって得られるもの、そんな予感がある。
誰が×つけてるの
自分の感情や思いを、否定してしまうって何だろう?
×をつける、ダメだしをするって、自分へのいじめなのに・・・
わざわざ×をつけるって?
自分いじめは、こうすべきだ!とか、こうしなければならない!など、批判したり叱咤激励する部分。
(ゲシュタルト療法でいわれるトップドッグ)
社会規範やルールや道徳、慣習など、幼少期から親や教育などによって与えられたものでもある。
これが的確に働けば、与えられた職務や役割を全うする中で、自分の強みを発揮し成果を出し評価や承認も得られるだろう。
でも、これが強すぎると、正しさに反応する厳格な司令塔によって、強迫的な思考に囚われたり、柔軟な考えが出来ず行動が限られたり、休むことにも罪悪感を覚え、無理をしていることに気づかずうつ病にもなりやすい。
また、厄介なことに、正しさ、責任感、完璧が他者に向かえば、高圧的、威圧的行動に繋がり、ハラスメントやコミュニケーションが円滑に行えなくなるだろう。
反面、正しさの要求から逃げたい、反抗したいという部分が人にはある。
面倒だな、嫌だな、という怠けたい気持ち。
(ゲシュタルト療法でいわれるアンダードッグ)
今は忙しいから、機会があったら、などと言い訳をして物事を引き延ばす。
受け身で弱いと感じてしまうが、実は、本音に近い部分でもあり、抑圧された感情や記憶から守っているともいえる。
アンダードッグは、子どものような純粋無垢さ、天真爛漫さを有している。
それは、裏表のない素直さで相手を選ぶことなく助けようとしたり、好きなことや目的には、純粋な好奇心と熱意をもってひたむきに取り組む、無邪気さは、常識にとらわれない発想や創造性を発揮することにも繋がる。
大切なのは、自分の内に相反する気持ちがあることに気づくこと。
それらが互いに何と言うのか?
対話を通して言い分を聞いていくことを試してみるのだ。
意識は繋がっているから、あまり歓迎されない、嫌だと感じる部分に光が当たることで、
一方通行だった流れが変化し、交流し始めることで循環していく。
相反する一見、矛盾したように感じる感情や欲求のぶつかり合いを共存させる過程で訪れる安堵感。
それは、あるがままの自分と共に在ることの一体感がもたらす、心の平和ともいえる。




