先日、久々に旅行してきました。
初めて訪れた山口県。
大自然に囲まれた歴史ある観光名所が豊富にあり、
食べ物やお土産、温泉等、何をとってもハズレなし。
見てよし、食して良し、買って良しの大満足な旅となりました。
今回、楽しみにしていた1つ、元乃隅神社。
2015年にアメリカのテレビ局CNNが発表した「日本で最も美しい場所31」のひとつに選ばれた場所で、
海外から注目され人気がでたという神社です。
日本海を望む自然の中に、丘から海に向かって朱塗りの123本の鳥居が立ち並ぶ姿は絶景!!
まさしく、「映える~↑↑」スポットでもあります。
更に面白いのは、この神社。
何と鳥居の上にお賽銭箱が設置されています!
賽銭箱の位置は5メートルの高さ。「日本一入れにくい賽銭箱」として有名だそうです。
また、賽銭箱の大きさも小さい!!
(長門市HPより画像お借りいたしました。)
お賽銭は投げてはいけないって聞いていたので、驚いたけれど、
皆さん、お賽銭を空中に放って、もう必死でした。笑
でも案外、的中率高くて、それも驚きでしたけど。
上手く入れば周囲から拍手喝采!!
何とも、ほのぼのとした空気が流れていましたよ。
時間がなく、私は断念しましたが、その代わりに、鳥居のトンネルをくぐって、しっかりパワーいただいてきました!
鳥居のトンネルを抜けた先にある断崖は、竜宮の潮吹きといわれる場所。
波が洞に入り込むことで吹き上げる豪快な様子を、運が良ければ見られるようです。
角島大橋
本州と角島を結ぶ全長1780メートルの橋。
エメラルドグリーンの海に架かる橋は絶景。
奈良時代より天皇に献上されていたという、角島のわかめは肉厚で美味しかったです♡
萩の城下町
夏みかん
大正時代、当時の皇太子、後の昭和天皇が萩にお見えになった時、「この町には香水がまいてあるのか」と言われたとか。
香りのおもてなし、なんて何とも素敵ですよね。
また、夏みかんは、前年になった実を収穫しないでおくと、今年は今年の実がつき、同じ木に前年と今年の両方の実がつくそうです。その様子を、代々続くという意味で「夏代々」と名付けたとか。
物知りなバスガイドさんがお話してくれました。
秋芳洞
日本最大規模の大鍾乳洞。
長い年月をかけて、地下水などによって石灰岩が少しずつ溶かされ生まれる空間。
中は、1年を通して17℃で一定とか。
自然の力が生み出した芸術の数々ともいえる光景。
巌窟王
威厳のあるお姿。
地下世界の宮殿のよう。
秋芳洞展望台では雲海が見れました!
錦帯橋
宇野千代さんの故郷、岩国市にある日本三名橋のひとつ。
木造の5つの橋が連なる構造で、中央の3つがアーチ状の美しい橋でした。
岩国寿司もおいしかったです。
次回は、岩国城と金子みすゞ記念館にも行ってみたいな。
温泉で定評のある長門市で、高級感ある温泉旅館やリゾートホテルを展開する企業が来年、オープンする施設があるようで、
これから、ますます注目を浴びることになりそうです。
個人的にも、住んでみたい都道府県ランクインの上位となった、魅力あふれる大満足な旅となりました。
11月。
日中の気温差はあるけれど、今年は、例年より暖かい日が多い。
もともと、秋は短い上に、ここの所の気象の変化によって、
夏から冬に急激に移ってしまう感が強かったので、
今年は、この短い季節を個人的に楽しんでいる。
そう・・・
今年は、上着の出番がなかなかやってこない。
アウターを何気に羽織る時期にはない、
曖昧な気温を楽しむための、コーディネートを考えるのが個人的に好きだ。
ワードローブの中から、何と何を組み合わせようか?から始まり、
甘めの物を、辛口のものと組み合わせたり、
盛りすぎ!と感じたら、ちょっと引いてみたり。
逆に、物足りなさを感じたら、足してみるとか・・
色や、小物や、アクセサリーで、
何を、どこに盛ろうか?引こうか?
考えるのが結構楽しいのだ。
この時間は、自分の感覚が全て。
俗にいう自己満足、というものだろうけど、
この、ああでもない、こうでもないの繰り返しが楽しい。
バランス、調和、センスとか言われるもの。
洋服は、ただ、私の身体を包むものだけれど、
私を表現するものの1つだと最近、気づくようになった。
気負わず楽でいたい時、
ピリリ!と引き締めていきたい時、
女性として楽しみたい時、
活動的に過ごしたい時、
更に、1つのシチュエーションでなく、
「相反することを、どちらも楽しみたい時」。
子育てをしながら、女性としての自分も楽しむような欲張り感が欲しくなる。
型に、役割に、はまり込むことのない、
力の抜き加減や、楽しみ方が、ファッションには現れると感じる。
また、年齢を重ね身体の変化と共に、選ぶものは変化するだろう。
今まで、似合わないと敬遠していたものが、しっくりくる瞬間。
形や、丈、色合い、素材。
それは、今までと違う、新たな自分の発見でもある。
その日、その場、相手によって、
どんな自分でいたいか?
を演じるための一種、コスプレ的な1つのアイテムでもある時期は超えて、
私の内面から自然に溢れることが、
ファッションを通して現れてくる。
そんな素敵な関係でいられれば嬉しい。
相手を知りたいと思う時は、まだ知らない(気づいていない)
自分を知る予感かもしれない。
相手を通して自分を知る。
苦手な人も、憧れの人も・・・
相手に映し出しているものは、
自分が抑えている認めたくないものだったり、
反面、
また発揮できていない魅力だったりもする。
他者に興味を持つことは、
自分に興味を持つことでもある。
愛の反対は無関心だ。と、マザーテレサは言ったけれど、
自分に起こっていることに、無関心を装うのは悲しい事だと思う。
私が繋がっていくこと。
その道のりは、けして平坦なものではない。
進んだり戻ったりを繰り返しながら、
いつの間にか楽になっている自分に気づいていく。
人間関係で繰り返してしまう癖のようなもの。
それは、相手が変わっても、また必ず出てきてしまう。
運命の人を捜しあてたところで、結局は一緒なのだと思う。
繰り返されることは、実は自分が繰り返しているのだから。
「気づいてほしい」「わかってほしい」
言えなかったこと、伝えられなかったこと。
それを言ったところで、無理だと諦めてしまったこと。
その思いは、ずっとずっと、心の奥にしまいこまれたまま、
表に出てくるのを待っている。
あの時、
私は何を言いたかったのだろう?
何を望んでいたのだろう?
何をしたかったのだろう?
怒りや、悲しみを引き起こす、その奥にあったもの。
そこに興味を持っていくこと。
触れられる機会がなかった代わりに、
感情や感覚を飲み込み、切り離して、
適応する技ばかりが磨かれてきたけれど、
それは、消えることなく今も残り続けている。
私を思い出していくこと。
それは、あなたが本来持つ力を取り戻すことでもあり、
愛を思い起こす尊い体験となっていくだろう。
自分の変化に伴って、好ましいと感じる香りは変化するようです。
先日、以前から気になっていたショップへ行ってきました。
「あなたの鼻が主役のお店」
ストレートで刺激的な1文。
そうそう!!
香りを選ぶって、そういうことなの!
流行りだとか、万人受けするとか、
それはそれで良いし、それを求める時もあるけれど。
でも、どこかで、今までと違うもの。
今の、私にぴったりくる香りを求めたくなる時期がある。
それは、本当の自分に出会いたくなる感覚にも似ている。
表面的には、自分の精神状態や、おかれている環境、体調で香りが変化することもあるけれど、
本能を呼び起こすような香りに突然、出会ってしまうことだってある。
呼び起こされるもの
察知するもの
守るもの
拡がるもの
予感するもの
過去という記憶
未来という予知
そして、いま
自由に行き来できる秘薬ともいえる。
過去、私にとって香りは、癒しや力、演出としての位置にあったけれど、
そこにとどまらず、香りと融合する感覚の存在があることに驚きを与えてくれる。
香りが奏でる音、物語、色、温度のようなものと自分が一体化する。
どんな自分になりたいか?はもちろんのこと、
時には、
その香り、そのものになってしまいたい時。
そこには、日常を超えるという、スリリングな冒険の予感がある。
子育ては自分育て、と言われるけれど、
言い方を変えれば、
子どもを通して自分を知る、ことだと感じる。
知るとは、
自分に起こる感情や思いや記憶などに気づくことでもある。
子どもといて、どんな時に、どんな感情が湧いてくるのか?
それを、ジャッジしている自分はいないだろうか?
良い悪いは、他者との比較によって起こりやすい。
その他大勢の子どもの中で、違い、という形で現れるもの。
うちの子、よその子、から見えてくること。
幼少期の心身の発達や、皆と同じ行動ができないとか。
言葉を借りれば、発達障碍だとか、不登校だとか・・
一般的な状態でない?ことについて、親は心配になる。
この子に何が起こっているのか?
寄り添って何とかしてあげたいと思う反面、
どうして、この子はこうなのだろう?
と異質な者として見てしまう、そんな時もあるだろう。
私の育て方のせいなのか、環境のせいなのか・・・
頭の中で、ああだろうか?こうだろうか?と原因探しを始めてしまうことだってあるだろう。
それは、子どもと自分が一体化している状態ともいえる。
困っているのは一体誰なのか?
どんなことに困りごとを抱えているのか?
子どもに起こっていることと、自分に起こっていることを分けることが大切になる。
違和感、苦しさ、怒り、悲しみ
子どもを通して、自分に起こることに気づくこと。
それは、辛いものに触れることになるかもしれない。
私の中に、ずっとあった未解決なものに触れてくる体験かもしれないからだ。
それでも、1人ではわからなかったこと。気づかなかったこと。
それと少しづつ一緒にいられるようになれる時、
同じような仲間と共にいる場があることで
初めて、子どもに寄り添うことができるのだと思う。
子育てに、もともと成功も失敗もないはず。
「人を育てる」ことが、評価されてしまう世の中では安心は得られない。
親の孤立をますます仰いでしまうだろう。
自分を知るには、映し返すものが必要。
人が変化していくには、他者が必要なのだから。
自己の分身??
日々の生活を共にする者?
守るべき者?
愛する者?
私と子ども。
最も近い存在だけれど、私ではない者。
違うからこそ、理解したいと思う者。
相手を変えることなく、自分も刻まないで・・・
近ければ近いほど生まれてくる違和感。
それを丁寧に観ていくことで、次第に関係は変化していく。