ブログ
看取り
高齢化が進み、人生の最終段階での医療の在り方は、大きく変わった。
尊厳死が言われるようになり、延命処置を行わないことで、
安らかに、自然な死を迎える選択を与えられる機会は増えている。
日本では、病院で最期を迎える方が大半だったが、超高齢化社会を迎え、今後、病院や老人ホーム等の不足が予想されており、
在宅での看取りのニーズが高まることは必然といわれる。
死は、確実に誰にも平等に、やってくることを考えると、
自分が将来、どのような最期を迎えたいか?を考えておくことは大切なことだと思う。
しかし、個人的に考える機会はあっても、それを近親者で共有する機会は少ない。
死について、話し合うことを避けてしまうのは、残されるものに働く心理か?
どのような最期を迎えたいか?
いかに本人の価値観を尊重するか?
前もって、近親者と共有することは辛いことかもしれない。
馬鹿げたことだ、と取り合わないでいたい気持ちもあるかもしれない。
死ぬなんて・・・そんな不吉なこと・・
現代では、認知症の問題もあり、自分の最期をどのようにするか?は、家族に求められるという現実もある。
最近は、老人施設で「看取り」を掲げる所が増えているが、
実際に、利用者の状態に合わせて、自然に死を迎える体制が整っている所はまだまだ少ないと感じる。
入所した時と違って、その人の状態は、刻一刻と変化していくものだからだ。
だからこそ、医療、介護スタッフ・家族とコミュニケーションをとり、情報交換やプランの見直しが大切になってくる。
衰弱する、という事は、
食事が摂れなくなる。
水分が取れなくなる。
尿が出なくなる。
色々あるけれど・・・・
人は、衰弱していく人を見た時に、
無意識に、何かをしなくてはいけない、と思うのではないだろうか?
「何かをすること」に慣れている状態ともいえる。
自然に息を引き取る場に慣れていないのだ。
呼吸が、ゆっくり止まり、やがて心臓が止まる。
その最後に至るまで、見送る私達の価値観が影響してしまうのではないか、と感じる。
ただ死を待つことは、周囲のものにとって、不安や焦りや、恐ろしさを感じることでもあるだろう。
死を受け入れる、ということは、看取るものに動揺を与える。
自然に命の終わりが近づく時、
限りある生の時間を、死にゆく人と共に過ごす時。
何かをしなければいけない、という焦りや不安や恐怖にまず気づくこと、
死に行く者、生きる者、死と生、分けようとしている自分に気づくこと。
そして、ただ今この一時に、共に存ること。
今ここに存在する者同士の場によって現れることは何であるのか?
それは、忘れがちな自分の死を意識して生きること、によって得られるもの、そんな予感がある。