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2019.05.24 (Fri)  16:57

看取り

高齢化が進み、人生の最終段階での医療の在り方は、大きく変わった。

 

尊厳死が言われるようになり、延命処置を行わないことで、

安らかに、自然な死を迎える選択を与えられる機会は増えている。

 

日本では、病院で最期を迎える方が大半だったが、超高齢化社会を迎え、今後、病院や老人ホーム等の不足が予想されており、

在宅での看取りのニーズが高まることは必然といわれる。

 

死は、確実に誰にも平等に、やってくることを考えると、

自分が将来、どのような最期を迎えたいか?を考えておくことは大切なことだと思う。

 

しかし、個人的に考える機会はあっても、それを近親者で共有する機会は少ない。

死について、話し合うことを避けてしまうのは、残されるものに働く心理か?

 

 

どのような最期を迎えたいか?

いかに本人の価値観を尊重するか?

前もって、近親者と共有することは辛いことかもしれない。

馬鹿げたことだ、と取り合わないでいたい気持ちもあるかもしれない。

死ぬなんて・・・そんな不吉なこと・・

 

 

現代では、認知症の問題もあり、自分の最期をどのようにするか?は、家族に求められるという現実もある。

 

 

最近は、老人施設で「看取り」を掲げる所が増えているが、

実際に、利用者の状態に合わせて、自然に死を迎える体制が整っている所はまだまだ少ないと感じる。

 

 

入所した時と違って、その人の状態は、刻一刻と変化していくものだからだ。

だからこそ、医療、介護スタッフ・家族とコミュニケーションをとり、情報交換やプランの見直しが大切になってくる。

 

 

衰弱する、という事は、

 

食事が摂れなくなる。

水分が取れなくなる。

尿が出なくなる。

色々あるけれど・・・・

 

 

人は、衰弱していく人を見た時に、

無意識に、何かをしなくてはいけない、と思うのではないだろうか?

 

「何かをすること」に慣れている状態ともいえる。

自然に息を引き取る場に慣れていないのだ。

 

 

呼吸が、ゆっくり止まり、やがて心臓が止まる。

 

その最後に至るまで、見送る私達の価値観が影響してしまうのではないか、と感じる。

 

 

ただ死を待つことは、周囲のものにとって、不安や焦りや、恐ろしさを感じることでもあるだろう。

 

死を受け入れる、ということは、看取るものに動揺を与える。

 

 

自然に命の終わりが近づく時、

限りある生の時間を、死にゆく人と共に過ごす時。

 

何かをしなければいけない、という焦りや不安や恐怖にまず気づくこと、

死に行く者、生きる者、死と生、分けようとしている自分に気づくこと。

そして、ただ今この一時に、共に存ること。

今ここに存在する者同士の場によって現れることは何であるのか?

 

それは、忘れがちな自分の死を意識して生きること、によって得られるもの、そんな予感がある。

 

 

 

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